こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
坂本龍一が逝きました。
80年代初頭を彩った音色の作り手達が、次々と…。
特別なファンではなくとも、彼が日本を代表する、世界的音楽家であったことに変わりはありません。
あらためて、その音楽と人となりを、今一度、振り返りたいと思います。
最初は、この曲。
戦場のメリークリスマス 坂本龍一
デビッド・ボウイ。坂本龍一。ビートたけし。大島渚。
この映画から、この曲は生まれた。
とにかく、前評判がすごい。
甲斐よしひろもサウンドストリートで、「戦メリ」の話をしている。
当時学生だった私は、当然観に行った。
この映画は戦場を扱いながら、不思議なる男達の友愛のみを刻んだ。
そして、やけに、このピアノの音色が響いた。
クライマックスでの、スクリーンに揺れ動く坂本龍一の表情が、いつまでも忘れられない。
この頃の大島渚は、いろいろと評論家や作家達から悪口を言われていた。
しかし、映画界に坂本龍一と北野武という次世代の担い手を引きずり込んだという意味では、やはりスゴい監督だった、と言わざるをえない。
NHK FM サウンドストリートの黄金期。
80年代、当時の音楽ファンが、必ず一度は耳にしたであろうラジオ番組。
それが、サウンドストリートだった。
特に1983年からの3年ほど。
DJ のメンツがすごかった。
月曜、佐野元春。
火曜、坂本龍一。
水曜、甲斐よしひろ。
木曜、山下達郎。
金曜、渋谷陽一。
この5人が、平日の夜10時からの45分間、入れ替わりでしゃべっていた。
甲斐よしひろファンから見た仲良し度。
甲斐よしひろと佐野元春は、見出した先輩と見出された後輩。
坂本龍一と甲斐よしひろは、意外にも仲が良く、互いの番組にゲスト出演していた。
甲斐よしひろと山下達郎は、縁なし。音楽性が、まったく違う。
甲斐よしひろと渋谷陽一は、犬猿の仲。
甲斐バンドを、ストーンズのパクリバンドと位置付ける渋谷を、もちろん甲斐は嫌ってた。
したがって、甲斐ファンなら、渋谷陽一より教授の方が断然好きだった。
TECHNOPOLIS YMO
坂本龍一とYMO 。
YMO の登場は、時代の画期だった。
最先端の電子音楽技術が生み出すテクノは、世界を席捲。
その産みの親が、日本人の3人だった。
坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏。
そこから、反復する電子音と演奏する人間の技術が一体化し、この時代がずっと続くのではないかと思わせた。
それを面白がる音楽家は、すぐにそれを取り入れた。
90年代には、その反動も大きかった。
尾崎豊の死から始まった路上ライブは、ギター1本で聴衆を惹きつけようとした。
80年代で散開したメンバーは、淡々と自分の世界を拡げた。
The Last Emperor 坂本龍一
中島みゆきとの縁。
名もない頃、坂本龍一はスタジオミュージシャンでもあった。
中島みゆきの「ありがとう」という初期の傑作アルバムには、ミュージシャンとして、坂本龍一の名がクレジットされている。
坂本龍一が著名になった頃、中島みゆきがオールナイトニッポンで、当時のエピソードを披露してリスナーを笑わせていた。
鮎川誠との縁。
YMO のメンバーと、同じアルファレコードの鮎川誠(シーナ&ロケッツ)のサポートとプロデュースを手掛けもした。
大ヒットしたアルバム「SOLID STATE SURVIVOR 」で、鮎川がギターを弾いた曲が2曲ある。
アルバムタイトル曲と、ビートルズのカバー「DAY TRIPPER 」だ。
鮎川誠も、高橋幸宏も、まだ鬼籍に入ったばかりだ。
Energy Flow 坂本龍一
芸術と社会活動への関心。
坂本龍一と言えば、もうひとつの顔として、社会活動への貢献が挙げられる。
政治や社会に無関心な芸術家が増えるなか、世界のSakamotoは、違った。
原発や安倍政権時代の安全保障法案反対のデモにも参加した。
サヨクという言葉は、まったく当たらない。
人として平和や自然を守る、当たり前のことをしていた。
それが誹謗中傷の対象となる。
恐ろしい時代になったものだ。
私は、彼こそが真の芸術家だと思っている。
最後の曲。
神々しいまでのピュア。
これを聴きながら、今夜、眠ろう。