こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
本日は、福岡のライブハウス「照和」出身アーティスト名曲選としてお送りします。
つい最近、「照和」に行って来ました。
その時、たくさん今の「照和」の写真を撮って来ましたので、それもお楽しみに。
これまでも、福岡の音楽シーンについての記事をたくさんアップしてきましたが、今回も知る人ぞ知る名曲をご紹介していきます。
それでは1曲目。
Just a 16 ARB
ARB
ARB はドラムのキースを中心とするバンドメンバーに、石橋凌をヴォーカルに迎えて、1977年に結成されたロックバンド。
石橋凌は久留米出身で、アマチュアバンド「アップルツリー」などで歌っていました。
その後「照和」のオーディションを受け、その頃「照和」で一番のスターだった甲斐よしひろに見出されました。
結成の翌年、シングル「野良犬」でデビューしますが、所属事務所(シンコーミュージック)が、当時大ブームだったベイシティローラーズのようなアイドルバンド路線を強要したため、1年でメジャー契約を破棄。
メンバーに脱退する者もいる中、腹を空かせた野良犬のように、ライブハウスでの活動から再スタートを切りました。
その後は、独自のカラーを全面に出し、メンバーチェンジを繰り返しながらも、社会派ロックバンドと言われるほどに、異色で硬派なロックバンドとなりました。
その頃、若手だったユニコーンの奥田民生など、後輩ロッカーの憧憬の的でもあったようです。
石橋凌の骨太な生き様は、今も多くのファンを魅了して止みません。
いつかARB 特集をやろうと思って数年経ちましたが、この続きは必ずやりますので、乞うご期待。
「照和」の店内、石橋凌のサイン色紙。
2曲目。
シリアス 長渕剛
長渕剛
長渕剛は、チューリップ、海援隊、甲斐バンドが上京した後「照和」から生まれたスター。
鹿児島から福岡へやって来て、中洲の歓楽街などで流しをしたりしたあと「照和」に出るようになりました。
長渕剛のヤクザまがいの演技力。
あれは中洲で修得したものだそうです。
「シリアス」は、この東京ドーム、1992バージョンが素晴らしくて、シブいですね。
まだデジタル音源としては、CDでしか入手できないようです。
長渕剛のこの曲は、下の記事でも紹介しました。
長渕が登場したのは、私が高校生くらい。
ラジオの深夜放送「オールナイトニッポン」を一番よく聴いていた頃。
そこで南こうせつが担当する水曜深夜に「裸一貫ギターで勝負」というコーナーをもらいます。
あわせて、南こうせつのコンサートの前座でも出ていました。
私は、久留米市民会館のこうせつのコンサートで、初めて長渕剛を見ました。
とにかく元気でハツラツとして、初アルバムの数曲を歌ってくれました。
髪の毛が長くて、華奢な頃ですね。
南こうせつとは、そんな縁があって、その恩返しの意味もあってか、数年前の、最後のサマーピクニックにゲスト出演して、こうせつと一緒に歌っていましたね。
「巡恋歌」で再デビューしたときは、いい曲だなぁと思いましたが、同じプロの目線は厳しかったようです。
同レーベルの有名アーティストなんかも、オリジナリティに疑問符を持っているみたいな事を、ラジオで話してました。
だからこそ、南こうせつのプッシュには恩義を感じていたのでしょう。
音楽的な事だから、素人の高校生にはわかりもせず、どうでもよかった感じです。
しかし、次のアルバムからシングルカットされた「順子」のときは、玄人目線も変わってました。
「照和」の先輩でもある甲斐よしひろは、サウンドストリートでこの曲を紹介するとき、言ってました。
ー今までは、拓郎のマネだった。でも、これは違うから。ー
同郷・鹿児島の吉田拓郎を目指して、シンガーになった長渕です。
吉田拓郎と同じ事務所・ユイ音楽工房に入り、拓郎夫妻(当時は浅田美代子夫人。)の仲人で、アイドルの石野真子と結婚。
別離のあと、その頃同じく離婚したての甲斐よしひろと、すごく親密になったようですね。
その頃の甲斐よしひろとの爆笑トークはこちら。
甲斐よしひろ サウンドストリート ゲスト:長渕剛
「照和」の店内、長渕剛のサイン色紙。
3曲目。
氷のくちびる 甲斐バンド
これは、ステージでも最高に盛り上がる曲ですね。
シングルとベスト盤では、アレンジが違います。
それぞれ、いい味なんで、両方聴いて欲しいです。
これを洋楽のパクリだとかネットで言う輩がいますが、このレベルだと、もうそんな問題じゃないです。
パクリとインスパイア、これがどう違うか?
これについては、かつてブログで、シェイクスピアを例に書きましたので、以下の記事をご覧ください。
その昔、ミスチルの桜井和寿が修学旅行のバスの中で、この曲を歌って大いにウケて何曲も甲斐バンドを歌ったとか。
本人が言っていたそうです。
ミスチルの今日あるも、甲斐バンドの影響は大きかったでしょう。
80年代に思春期を過ごした世代には、甲斐バンドは特別な存在でした。
「照和」の店内、甲斐よしひろのサイン色紙。
次の曲。
崩れ落ちる前に THE MODS
THE MODS
リーダーの森山達也もまた「照和」のオーディション組。
甲斐よしひろの一言で合格し、「照和」に出演していました。
そして数年。
甲斐バンドが上京して、「照和」は閉店。
そんな時、天神の親不孝通りに出来たのが、ライブハウス「80'S FACTORY 」。
そこで、新たに結成されたTHE MODS は躍進を遂げます。
タイムリーな音楽性やパンク全盛期の時代状況が、彼らを一躍時代の寵児にしたのです。
そのとき獲得したコアなファンは、いまだ近寄り難いくらい森やんを信奉してやみません。
そういうバンドです。
日比谷野音と言えば、「雨の野音」という言葉が浮かんできます。
それだけ伝説のギグだったわけです。
彼らのストーリーも「めんたいロック特集」記事に組み込むもくろみでしたが、どうあがいても彼らのファンには敵わない。
それで、名曲「バラッドをお前に」にインスパイアされた短編小説を書きました。
それがこの記事です。
たいへん貴重な、森山達也と甲斐よしひろの対談はこちら。
オーディションのときの裏話も聞けます。
森山達也 VS 甲斐よしひろ 対談
次の曲。
思えば遠くへ来たもんだ 海援隊
海援隊
ご存知、武田鉄矢がヴォーカルを取る、千葉和臣、中牟田俊男の3人編成のフォークグループ。
知らない方のために説明しますと、「海援隊」とは、江戸時代末期、いわゆる幕末の土佐藩から出た坂本龍馬を隊長とする、日本初の商社組織。
薩摩藩と長州藩の薩長同盟を仲介したことで有名です。
武田鉄矢が司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を読み、坂本龍馬に心酔したことから名付けました。
チューリップが上京した後、オレたちは福岡にいると宣言して「照和」で歌っていたところを、泉谷しげるに引っ張られ、上京。
泉谷と同じ、エレックレコードに所属。
しかし、東京では鳴かず飛ばずの状態でした。
彼らのお家芸は、博多弁のしゃべりで客を惹きつけるところでしたが、それだけで通用するほど、東京は甘くはありませんでした。
追い込まれて、最後に親孝行の歌を歌って終わりにしようと出したのが、「母に捧げるバラード」でした。
それが起死回生のヒットとなりましたが、その後は1年足らずで逆戻り。
一発屋で終わりなんとしている状態に。
ところが、武田鉄矢のキャラクターが山田洋次監督の目に止まり、高倉健主演の映画「幸せの黄色いハンカチ」にバイプレイヤーとして抜擢されます。
そして、この映画が日本映画史上にも名だたる名作となったおかげで、武田鉄矢は役者としてブレイク。
その後、主演ドラマ「3年B組金八先生」が世間的にも大ブームを起こし、そのドラマ主題歌「贈る言葉」が大ヒット、海援隊もまた再ブレイク。
ここらは同世代の方々、ご存知のとおりです。
米倉涼子主演ドラマ「ナサケの女」を観たとき、たまたま泉谷しげると武田鉄矢が共演しているシーンがあり、この二人の人間模様にグッと想いを馳せる瞬間がありました。
「ナサケの女」第1話。
中原中也の詩。
この曲のタイトルは、中原中也の「頑是ない歌」という詩の冒頭から取ったものです。
武田鉄矢は大の読書好き。
その博識ぶりが、ここにもあらわれています。
中原中也は、山口県出身の詩人。
太宰治や小林秀雄などと同世代の、コアなファンが多い詩人です。
ー汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる
ー汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる
この詩は、どこかで聞いたことがないでしょうか。
前回の記事で「九州人による爆笑九州談義」という動画を載せたところ、大反響でした。
武田鉄矢の芸達者ぶりが、あらためて全国に認知されたのではないかと思います。
海援隊は、ヴォーカルの武田鉄矢が、歌よりも しゃべりにプライドをかけてやっていたという、メチャクチャ変なフォークグループです(笑)。
大阪に負けてたまるかと思ってやっていたと本人が話していたので、これは面白いはずです。
海援隊の曲作りは千葉和臣がメインですが、これは同じ事務所だったフォークグループ・ふきのとうの山木康世の提供曲。
海援隊の曲の中でもあか抜けているのは、そのせいでしょう(笑)。
「照和」の店内、海援隊の壁書きサイン。
それでは、最後の曲。名曲です。
青春の影 チューリップ
財津和夫。
この人がいなかったら、「照和」から続くアーティストが出たかどうか。
それくらい、この人の存在は、重要でした。
若い頃の彼は、ひたすら上を目指していました。
ビートルズのように、日本のトップになるという意気込みがすごかった。
それは、若き日のエピソードの数々が証明してくれます。
彼は、その頃「照和」に出ていた人間の中からベストメンバーを選んで、チューリップを組むのです。
その情熱の激しさは、ある意味で常軌を逸していたと思えるほど。
海援隊からドラムスの上田雅利を、ライラックからは姫野達也を、全員が福岡のトップミュージシャンでした。
結成後は、閉店後の「照和」で猛練習をメンバーに課しました。
メジャーで成功するまで、必死の覚悟でした。
彼の姿勢に、仲間達が刺激を受けなかったはずは無いでしょう。
海援隊も、甲斐よしひろも、まだそこで歌っていました。
瞬く間に福岡のトップグループに立ったチューリップは、まさに財津和夫が作り上げたものです。
しかし、彼の目指す地点はそこではなかった。
メジャーデビューを果たし、東京で成功することでした。
知り合いのツテを頼って、東芝EMI のディレクター新田和長(この方は元・グループ・サウンズの、ザ・リガニーズのメンバー。のちに東芝と契約した甲斐よしひろと、アルバムの共同制作を行います。)に、デモテープを送ります。
そして上京。
デビュー後のシングルは、「魔法の黄色い靴」「一人の部屋」と不発。
3枚目でダメだったら、福岡へ帰ろう。
そう覚悟を決めて臨んだ、楽曲制作でした。
そして、ポップでメロディアス、親しみやすいサウンドを追求して出来上がったのが「心の旅」でした。
しかし、屈辱もありました。
新田の指示で、リードヴォーカルを姫野達也に取らせることに決まり、曲の構成にも手が加えられることに。
しかし、結果はすべて吉と出ました。
「心の旅」は、5ヶ月かけてヒットチャート1位となり、チューリップは「照和」から出た最初のビッググループになったのです。
「青春の影」は、財津和夫の作った曲の中でも特筆すべき名曲です。
アイドルバンドから、大人の歌を歌える成熟したバンドへの一歩が、この曲でした。
それは、ビートルズと同じ道のりを目指す、財津のスタンスにも一致していたのです。
「照和」の店内、チューリップ、財津和夫のサイン色紙。
「照和」探訪の記。
2022年3月19日撮影の「照和」の外観です。
6年前からほとんど変わっていませんね。
中の様子も、コロナ対策の座席間のパーテーションのほかはそのままです。
結構、お客がいて、店内のスタッフは女性ばかり。
前回と同様、甲斐バンドの曲が流れていました。
「照和」で聴く「ポップコーンをほおばって」や「ダニーボーイに耳をふさいで」には、しびれました。
アドレナリンが出まくり、トリハダがたちました。
オーナーの武藤美代子さんと、帰り際に少しお話しをしました。
以前訪れたときは客が自分だけで、昔はステージは反対側にあったとか、曲は甲斐バンドでいいですかとか聞かれて、ご親切に対応して頂きました。
もう75歳というご高齢なんですね。
スマホを見せて、この記事を書いた者です、と説明しても、しばらくはピンと来られない感じで、ようやく、宣伝してもらってありがとうございます、とお礼のお言葉を頂きました。
それだけで、感無量です。
新しくタオルなどオリジナルグッズができてましたので、皆さん、ご来店の折にはどうぞ。
それに、地元・福岡の人も、まだ行ったことがないという方は、一度ならずと二度、三度と足を運んでください。
いつまでも、「照和」が福岡の街にあり続けますよう、ご協力お願いします。
それでは、今日はこれで終わりです。
おやすみなさい。
フロアの奥、右側が昔のステージのバックヤード。この奥に、甲斐よしひろや長渕剛の控室があった。
「照和」や長渕剛の新聞切り抜き。「照和」特製タオル。
店は、地下1階にある。