こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
本日は、「博多発・めんたいロック特集 PART 1」と題してお送りします。
福岡市天神のライブハウス「照和」 は、1978年11月に閉店。
海援隊、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛をプロの世界へ送り込んだライブハウスの閉店は、一時代の終焉を告げた。
そんな折も折、世界のロック・シーンに、またも欧米から大きな波が押し寄せた。
ラモーンズ、セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュに代表される、パンク・ムーブメントの到来だった。
すべての既成の権威に反抗する、パンク・ミュージックの価値観は、日本の若いミュージシャンにも大きな影響を与えた。
しかし、地方都市博多には、そんな時代に左右されない、ホンモノ指向の男たちがいた。
1971年の鮎川誠。
博多に、「ぱわぁはうす」というロック喫茶が誕生したのは、1971年だった。
年の暮、そこにひとりの男が現れる。
男の名は、鮎川誠。23歳。
久留米市出身。
身長180センチ。
アメリカ人の父と日本人の母の間に生を受けた。
軍人の父が遺した洋楽のレコードを聴き、小学生の頃からギターを持っていた。
黒いサングラスが似合う、短髪痩身の男。
この男の登場とともに、博多のロックシーンは本格的な幕を開けた。
PINUP BABY BLUES シーナ&ロケッツ
鮎川誠とシーナの出会い。
「ぱわぁはうす」に鮎川誠が初めて訪れたとき、彼は九州大学の学生だった。
すでに前年、柴山俊之らとブルースロックバンド、サンハウスを結成しており、このライブハウスを母体として、彼らは独自のロックミュージックを打ち立てるべく、切磋琢磨してゆく。
そんな頃、鮎川は後に妻となるシーナ(本名:副田悦子)と出会う。
博多の夜の街。
物足りない顔つきで歩いていた、シーナが立ち止まる。
ダンスホールから聴こえてきたヤードバーズ。
そこでシーナが見た光景は、客にヤジを飛ばされながら、エレキギターをが鳴らす鮎川とサンハウスの面々だった。
鮎川は、突如現れた彼女とすぐに意気投合し、音楽の話に夢中になる。
こんなにロックやブルースに詳しい女の子がいたのか…。
それまで音楽以外に関心のなかった鮎川は驚嘆し、二人は恋に落ちた。
やがて、家出をしたシーナは、鮎川とひとつ屋根の下で暮らし始める。…
ここらの事情は、シナロケの足跡を再現した、NHK 福岡放送局制作の「YOU MAY DREAM 」というドラマに詳しい。
このドラマは、放送当時、このブログでも大いにプロモーションした。
シーナ役を演じたのは、ARB ・石橋凌の娘・石橋静河だ。
めんたいロック、シナロケのファンは、是非観るべし。
このドラマで、若い鮎川が弾いていたキンクスの曲。
You really got me The Kinks
歌詞和訳 The Kinks – You Really Got Me
博多のブルースロックバンド、サンハウス。
鮎川誠は、ガリ版で印刷した講義録をもとにブルース・ロックを語るイベントを開くなど、そこに集まる仲間たちと若い情熱の限りを音楽に注いでいた。
そこらの、女にモテたいためだけの半端なロック通とは訳が違う。
それゆえに、そのサウンドは、その後の にわかパンクブームに乗っかって生まれた東京のパンクバンドとは一線を画していた。
彼らは、骨太でファンキーな色気を漂わせた ブルース・ロックを、博多の街から全国へ発信してゆく。
1975年には、アルバム「有頂天」をテイチクからリリース。
当時の日本のロックシーンにおいて、地方発のブルースロックバンドのメジャーデビューは、極めて異例な事件だった。
こうしてサンハウスは、伝説のバンドとして長く語り継がれる存在となった。
それでは、アルバム「有頂天」から、A面の1曲目に収録。
キング・スネーク・ブルース。
キング・スネーク・ブルース サンハウス
サンハウス誕生。
菊こと柴山俊之は、福岡市出身。
当時、福岡大学に在学中だった。
家業の土建屋を継ぐはずだったこの男は、ダンスホールや米軍キャンプに入り浸り、歌を歌っていた。
しかし、身内から懇願され、新しいバンドの話が出た段階では、音楽をやめるつもりでいた。
柴山は迷ったあげく、実家から1年間の活動限定の許しを得て、バンドに加わった。
鮎川誠と柴山俊之に ブルースバンド結成を持ちかけたのは、福岡のダンスホールで同じくハコバン(専属バンド)をやっていた、知己の篠山哲雄。
柴山は、ベースに浜田卓、ドラムスに浦田賢一を推薦して、二人の了解を得た。
ここに、サンハウスの中核メンバーが揃った。
1970年冬日、ブルースロックバンド・サンハウスは誕生した。
2枚目のアルバム「仁輪加」のタイトルナンバー。
仁輪加 サンハウス
バンドとは、生命体だ。
こうして、博多にいながらにして、全国に勇名を馳せたサンハウスだったが、その活動は、約3年半で終止符を打った。
複数の人間がガッチリと組み合った時の紐帯は、一個人の個性だけでは到底及ばない爆発的エネルギーの噴出をみて、留まる事を知らない大風波の連鎖を呼び起こす。
しかし、どんな結束も、異なる個人の嗜好性の生育を阻むことは出来ない。
そして、やがては個に戻る時がやってくる。
サンハウスも、もちろん例外ではありえなかった。
鮎川誠の上京。
先ほど紹介したシナロケのドラマで、特に印象に残るシーンがある。
それは、 シーナこと、副田悦子の父親役の松重豊が、鮎川誠役の福山翔大に向かって東京行きを促す場面だ。
その時、サンハウスは活動停止の状態にあり、鮎川はシーナの実家のやっかいになっていた。
父親は、すでに双子の親となった鮎川に、東京で勝負して来い、と言い放つ。
少し長いが、ここに松重豊のセリフを引用する。
マコちゃん。
あんたは悦子と子供達を幸せにするとね、せんとね。
オレは、サンハウスは好いとる。
ばってん、博多んもんにチヤホヤされただけで、仕事にはならんやったろうが…。
東京で勝負かけてきない!
今んままじゃ、ぬるま湯に浸かっとるだけやろ。
腹いっぱい東京でやって、ダメならあきらめもつくやろ。
どうしてんダメやったら、いつでん帰って来たらいい。
脚本:葉月けめこ
この松重豊のセリフは、マコトに博多の親父気質というものを端的に語っている。
或いは、このセリフこそが、日本の親父カタギというものかもしれない。
この後、鮎川は単身上京。
サンハウスの時は、いくら東京からお呼びがかかっても、博多のサンハウスと意思を曲げなかった鮎川誠の、背水の陣。
決意の東京行だった。
そして、シーナも、その後を追う。
そこで、思わぬことからシーナのヴォーカリストとしての才能が、開花することになる。
シーナ&ロケッツ誕生。
スタジオで、鮎川の曲の歌入れが行われていた。
予定されていた女性シンガーは、どうしても音のノリに合わせる事ができない。
ディレクターのイライラが募る。
表情が険しく、眉間にシワを寄せている。
シーナは、鮎川の横で、レコーディングに立ち会っていた。
繰り返されるテイクのエンドレスが待ちきれないように、シーナの身体が音楽に揺れ始める。
その時、リズムに合わせてノっているシーナに、ディレクターが目を留める。
「君、ちょっと歌ってみてよ」
シーナをヴォーカルに迎え、バンドは走り出す。
その名は、シーナ&ロケッツ。
ロケッツの由来は、ロックの悦子。
すなわち、ROKKETS。
鮎川こだわりのネーミングだった。
ベースとドラムスは、福岡の仲間を呼び寄せた。
やはり、博多んもんとじゃなかなら、合わんやったってことだ。
そして、サンハウスのヴォーカル・柴山俊之からは、多くの楽曲に詞の提供を受けた。
こうして、仲間との絆は続いていくのだった。
それでは、最高にブルージーなブルースナンバーを、2曲続けて聴いてください。
POISON シーナ&ロケッツ
こうして、シーナ&ロケッツは、アルファレコードに所属して、メジャーデビュー。
アルファレコードの、YMO (イエロー・マジック・オーケストラ)のバックアップを得て、シングル「YOU MAY DREAM 」をリリース。
これが大ヒットして、彼らがブレイクしたのは、ご承知のとおりである。
鮎川は、YMO のツアーやレコーディングに、ギタリストとして参加。
この時このタイミングで、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏というカリスマ三人を、共同制作者、プロデューサーとして迎えたのは、まさに天の配剤としか言いようのない僥倖だった。
シーナ&ロケッツのブレイクは、元サンハウスのメンバーにも大きな刺激剤となった。
その後、サンハウスは再結成を繰り返し、鮎川は二つのバンドのギタリストとして活躍。
シーナが故人となった現在も、シーナ&ロケッツは、鮎川がヴォーカルを取り、 活動を続けている。
ROUGH NECK BLUES シーナ&ロケッツ
「POISON 」「ROUGH NECK BLUES 」ともに、鮎川誠のギターがたまらない。
ギンギン、入ってくるね。
イカしたブルースのノリが、とにかくカッコいい。
鮎川誠ファンならずとも、すべてのロック・フリーク必読の名著。
それでは、最後の曲。
シナロケの代名詞。
朝ドラ「半分、青い。」の劇中歌で、初めて聴いた人も多いだろう。