こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
本日は、「ブログで短編小説を」の第6弾。
甲斐バンド「危険な道連れ」。
危険な道連れ
蒸し暑い夏の夜だった。
町の喧騒が、嘘のように静まりかえっていた。
玲子は、うつむいて目を閉じている。
言い合いになった後の気まずさが、二人に沈黙を余儀なくさせた。
彼女は、頑なだった。
僕の説得に応じようとはしなかった。
かと言って、僕の言い分が本当に真っ当なのかは、僕自身、疑問に思っていた。
「あなたと一緒にいたいの。それがどうしていけないの」
玲子は、朧げに足元を照らす街灯の下で、そう言った。
二十歳を過ぎた頃だった。
僕は心を病んで、精神科の専門病棟に入院していた。
入社した会社の上司とやり合い、参っていた。
その病院は、小さな港町の内海に面して建っていた。
入り江に注ぎ込む河と海とが混じり合い、満ち引きを繰り返す潮が、病院の窓からよく見えた。
玲子の個室は、僕の部屋から広いロビーのような空間を隔てた先にあった。
お互いどんな重たい荷物を抱えて、そこにきたのかは知らない。
その病棟の患者は、みなそうだった。
日々を、ドクターやスタッフのケアを受け、生活していた。
その病院の治療方針は独特で、あらかじめ段階が決められていた。
入院当初は、それぞれの部屋で、何もしないで過ごす。
その頃は、同じ患者同士の接触は、ほとんどない。
三度の食事を食堂でとるときに、顔を見合わす程度だった。
心身の疲労が取れたと見做されると、徐々に集団での治療に参加する。
みんなで陶芸をする時間があったり、ピアノの演奏に合わせて一緒に歌を歌ったり、講堂でソフトバレーボールをやったり…。
そうして集団生活をしていると、自ずと人の心は打ち解けてゆく。
玲子とは、そうやって親しくなった。
それは、じつにありふれたことだった。
だが、そこで暮らす人びとの心の傷は、一様ではなかった。
偶然に出会った場所が、とても風変わりだった。
その風変わりな出会いが、何かしら宿縁めいて、ふたりを不安にした。
その夜は、町の夏祭りだった。
僕と玲子は祭り見物を装い、その病院を出た。
どこか遠くへ行こうと、ふたりで決めていた。
地元の盆踊りで街中は賑わい、舗道には露店が軒を並べていた。
いつか僕たちは、活気ある人波に、たいそうはしゃいでいた。
人前で、固く手をつないで歩くのは初めてのことだ。
時々、甘えるように肩にすがりつき、頭を寄せる玲子が愛おしかった。
露店には、たくさんの人だかりが出来ていた。
玲子は、ピンク色の綿菓子を買った。
くちびるを赤く染めてエクボを作る姿は、すっかり無邪気な子供だった。
僕は、般若のお面を買った。
なぜこんな鬼の面なの、と玲子が尋ねた。
それはね、鬼には厄除けの力があるからさ、と僕は答えた。
それから僕たちは、金魚すくいをした。
玲子は、網を皿のように操り、数分のうちに五匹ほども掬った。
僕はそれを、あきれて見ていた。
次は僕の番だった。
だが、金魚は危うげな網の上を、器用に逃げ回る。
一匹も掬えないうちに、網は破けた。
小さな女の子が、そばで僕たちの様子を見ていた。
ーお姉ちゃん、もう一回やって。
そう言って、玲子の袖を引っ張っている。
ーよーし、やるか。
玲子は腕まくりをして網を握ると、瞬く間に十匹近くも掬った。
ーはい、あげる。
女の子は、玲子の差し出したビニール袋に、眼を見張った。
袋の中は、飛び跳ねて泳ぎ回る金魚でいっぱいだ。
女の子は、ありがとう、と破顔一笑、ペコリとお辞儀をして、袋を受け取った。
それは、小さな生命(いのち)の輝く光景だった。
刹那の夢幻が、僕たちを包んでいた。…
夢のような時間は、長くは続かない。
祭りに華やいだ街は、漆黒の闇に包まれ、なりを潜めた。
道端のあちこちに散乱しているのは、人混みに踏みしだかれた、金箔の紙吹雪や、破れた提灯、折れた幟、空き缶などの残骸だった。
相変わらず玲子と僕は、路地の片隅に座って黙りこんでいた。
何度も同じことを言い合い、その繰り返しに、ふたりとも疲れ果てていた。
ふたりの企てを、やめようと言い出したのは、僕だった。
「やっぱり、戻らないといけないよ」
「どうして?」と玲子。
僕は返事につまる。
「あたしが重荷なの。病気持ちだから?」
玲子は言った。
「みんな心配してるだろうし、帰らないで、どうするよ」
そう言いつつも、自分が情けなく思えてくる。
「知らない町で、ふたり生きて行こうって決めたじゃない。意気地なし」
玲子の声は、涙ぐんでいる。
今の病気を抱えたまま、二人が本当に一緒に暮らしていけるのか…。
玲子は、僕にその答えを求めていた。
だが、この道ゆきが、玲子を本当に幸せにすることになるだろうか?
玲子の涙は、僕のせいだ。
だからと言って、このまま突っ走ることは無謀すぎるのではないか?
心の中で、その疑問がぐるぐると駆け回った。
ー玲子が大切だから、すぐに答えを出せないんだ。
そう言って、玲子に言い訳している自分がいた。
突如、暗がりに一閃の光が蠢くと、うなるような爆音が辺りに響いた。
スルスルと一台の改造車が、派手なクラクションを鳴らし近づいて来る。
ようよう、夜中にしっぽりデートかい、とさかんに指笛を吹く。
この町の、青くさい不良どもらしい。
車には三人ほど乗っているようだ。
「ちょうどいい。運転手が来たよ」
僕がそう呟くと、どうする気なの、と玲子は不安気な顔をした。
「ちょっと、頭のヘアピン借りるよ」
玲子は首を傾げ、僕は髪の間からそれを取り出した。
「おい、おまえら。こっちへ来たらどうだ」
僕は、そいつらに大声で怒鳴った。
「なんだと、この野郎」
そう言って、助手席にいた男が車から出てきた。
「全員降りろ。それとも串刺しにされたいか」
たちまち、若い方の二人が殴りかかってきた。
こぶしの通る先は、瞬時に空を切る。
相手の動きを利用して、僕は素早く相手の後ろに回り込む。
いつのまにか、一人は地面に這いつくばり、一人は呻き声を上げ僕の体の下に組み敷かれている。
一瞬の出来事に戸惑いながらも、リーダー格の男が、飛び掛かって来る。
瞬間、身をかわすと、背中から羽交い締めにして、その場で玲子から借りたヘアピンを、首元に突きつけた。
「いいか。オレたち二人を、日の出病院まで乗せて行け」
男は、顔をひきつらせ、唸り声を上げながら首を垂れた。…
玲子と僕が戻ると、病院のスタッフは叱るどころか、大喜びで迎えてくれた。
「まぁ、よかった、心配してたのよ」
と、婦長さんに言われたときは、さすがにしんみりした。
玲子もうなだれていた。
真夜中の三時だというのに、数人のスタッフが帰宅もせずに、起きていてくれたのだ。
その夜は、そのまま個室へ戻り、眠りについた。
あなたといたい、という玲子の言葉は、いつまでも心の奥に響いた。
それから二週間後、玲子は退院した。
夏祭りの夜以来、僕らはお互いを避けていた。
時に視線がぶつかっても、目をそらし合う。
そんなことが続いていた。
だから、彼女が何を思い何を考えているのか、知ることはなかった。
僕もまもなく、退院が決まった。
すぐに今までの会社を辞め転職し、新しい仕事についた。
慣れない仕事は、いつか忙しない日常で僕を包み込み、時を忘れさせた。
玲子に連絡をすることはなく、彼女からも音沙汰はなかった。
玲子と再会したのは、それから半年ほどしてからだ。
季節は、秋になっていた。
月に一度通う病院の待合室は、誰もが防寒の装いをしていた。
その中に、玲子の姿があった。
玲子は、どことなく落ち着いて見えた。
声を掛けると、自分の隣りの椅子を指差し、こっちに来てと合図をした。
僕が腰掛けると、玲子は意外にさっぱりした口調で話しかけた。
「あれから、どうしてたの。具合はどう?」
「うん。このとおり。退院したあと、別の会社で働いてるよ」
僕は、リュックにしまっていた新しい会社の制服を見せながら、そう答えた。
「そう。よかったわ」
「君はどうなの」
しばらくためらいの時間が流れた。
それから、玲子は柔らかい笑顔になって言った。
「わたし、ずっと聞けなかったんだけど」
「なにを?」
「あの夜、不良に絡まれたとき」
「うん」
「どうしてあんなに強いの?」
「そう言えば、何も話さなかったね」
そのときは、僕も自然に笑っていたように思う。
「父親が合気道の師範でね。小さい頃から仕込まれたんだ」
「えっ、そうだったの。まるでブルース・リーみたいだったわ」
玲子は口を抑えながら、感心したように笑った。
僕は、もう半年間忘れていた温かい感情が甦ってきたようで、嬉しかった。
だが、そのあと玲子はしんみり黙った。
そして、切り出した。
「あたしね、結婚したの」
僕は絶句した。
何をどう言葉にすればいいか、わからなかった。
見れば、彼女の左手の薬指には、指輪が光っていた。
しばらく時間がたって、おめでとう、とこたえるのが精いっぱいだった。
早すぎる結婚には、理由があったはずだ。
それも、ごくわかり切った理由が。
玲子は、すまなさそうに眼を伏せ、僕の隣に座っていた。
しかし、パッと明るい笑顔になると、手元のバッグから小さな箱を取り出した。
「コレね、私の大切な宝物なの」
玲子がふたを開けると、そこには、あのときの、黄金色のヘアピンが光っていた。