見返り美人
おまえさんの言うとおりだったよ。
わかってる、いまさらなにを言ってもしょうがない。
だから、こうやって飲んだくれてんじゃねえか。
もうやめとけ、だと。
客商売が、バカなこと言うな。
飲ませてくれ、頼むからよ。
ニ年になるかな。
オレが、この店に初めて来てから。
飲んでいると、あいつがそこのドアから、ふらりと入ってきた。
あれほど酔って、泣きくずれてる女を、初めて見たよ。
狂ったように、男に捨てられたって、わめいてた。
オレはあいつを、もの珍しい、絶滅危惧種のアホウドリみたいに、ただ眺めてたっけ。
あいつがオレにすり寄って来たんで、あんた、あいつになにか言ってたな。
迷惑だよ、とかなんとか。
オレにはなんの事だか、さっぱりだったけどよ。
あいつはしきりに飲もう飲もうって、オレに絡むのをやめなかった。
まあ、あいつの方が年上っぽかったんで、オレも多少引いてたよな。
あいつを振り払って、店を出ることにした。
そのときは、もう二度とこの店に来ようとは思わなかった。
人間には、どうしようもなく身についた、性分というものがある。
オレは親に逆らって、音楽の道を選んだ。
大人たちの敷いたレールの上を、絶対に歩きたくはなかった。
それが、オレの性分だったのかは、よくわからない。
ただの大アマだっただけ、と言われれば、それまでさ。
ともかく、ヘイコラして会社勤めをしていた親父に、我慢がならなかったんだ。
そのとき、十八だった。
オレは、ひとり東京へ向かった。
当たり前の話だが、駆け出しのバンドマンは、音楽だけでは食っていけない。
昼夜バイトに駆け回り、残った時間でバンド仲間とスタジオ練習。
スタジオを借りる金もない時は、ボロアパートで曲作りに励んだ。
高校の頃、オレは同級の、菜穂子という女と付き合っていた。
彼女の家は、田舎の代議士を親父に持ってるような、お堅い上流階級って感じ。
高校を出て、コースから外れたオレが、菜穂子との付き合いを許されるはずがなかった。
上京してから、彼女のことは忘れようとした。
そんなとき、突然、菜穂子が東京のアパートを訪ねて来た。
彼女は、半ば家出同然に、田舎を飛び出して来たのだった。
オレは、迷った。
そのいじらしさに、はらわたを引き裂かれる想いがした。
やっと、デモテープを聴いてくれるレコード会社がいくつか出てきたとはいえ、根無し草の暮らしに変わりはなかった。
一緒には、いられない。
菜穂子を、オレの巻き添えにはできない。
最後の夜、オレは泣きはらす彼女を腕に抱いて、長い時間を過ごした。
夜が明け、田舎へ向かう彼女を、東京駅に見送った。
菜穂子とは、それきり会っていない。
酔えるものなら、なんでもいい。
次は、ウォッカをくれ。
バンドは、どうしたかって?
ヤイリ、レスポール、ギブソン…。
大方のギターは質に入れた。
どうしても愛着があって手放せないやつは、家でホコリを被ってる。
東京に来て、七年が経った。
やることはやった。
疲れたんだ。
何もかも、嫌になった。
嘲笑えよ、この負け犬を。
この店に最初に来て、半年くらい経った頃だ。
オレのバイト先の居酒屋に、客として、あいつがやって来た。
オーダーを取りに行ったとき、オレはあいつに気づいた。
あいつは知らん顔で、客がまばらになるまで女友達としゃべってた。
オレは厨房に戻って、黙々と働いた。
いつか、肉体を酷使する仕事に、心底馴染んでいた。
居酒屋だけじゃなく、ときには建設工事の現場でも働いた。
全神経を針のように尖らせ、身体を痛めつけていると、すべてを忘れられた。
故郷のことも、菜穂子のことも、音楽のことも。
くたくたになってボロアパートの部屋に帰ると、泥のように眠った。
夜中の二時を過ぎた頃、居酒屋の裏口を出ると、あいつが待っていた。
「よう」
あいつは少しはにかみながら、右手を上げた。
黒いレザーのワンピースに身を包んで、ネックレスの銀だけが、夜の闇にチラチラと反射している。
「あんたか」
オレは言った。
泥酔していた女の姿が、オレの脳裏に甦った。
それから、あいつに誘われるまま、夜の街にシケこんだ。
あいつの部屋へなだれ込み、ありふれた関係になった。
しばらくして、あいつとふたり、あんたの店に立ち寄った。
もちろん、客としてだ。
オレはもう、百年前からあいつと一緒のような気になっていた。
あんたは、妙な顔をしていた。
それから十日ほど経ったある日、あんたと偶然、街で出くわした。
サテンに入って、他愛のない話をしていると、あんたは急に真面目な顔になった。
そして、あいつのことを、ひどくこき下ろした。
あの女には、惚れた男がいる。
切れた方が身のためだ、と。
だが、そのときのオレは、何を言われても聞く耳を持たなかった。
死ぬほど惚れた男に捨てられて、半気狂いになってる…。
そんな女が、オレにはちょうどいいんだ。
そんなことを言って、あんたを罵ったっけな。
その頃のオレは、堕ちていくだけの境涯に、身をゆだねて生きていた。
この街にやって来たときの、気負いこんだ情熱は、跡形もない。
そんなオレに、かたぎの、身綺麗な女は似合わない。
そう思いこんでいた。
あんた、「火宅の人」って映画を観たことがあるか?
身持ちの悪い小説家の自宅に、女優になりたいって言う女が訪ねて来るんだ。
悪い亭主ながらに子沢山で、陽の射す庭には、赤ん坊のおむつがところ狭しと干してある。
この小説家は、その女優志望の女に、こんなことを言う。
「君、女優になりたいの? そうなると、庭におむつの旗も立てられないよ」
女は、あっけらかんと、そんな人生を否定した。
だが、世の中の大多数の女は、そうじゃない。
家庭に入ったら、妻として、旦那のより良き伴侶となり、子育てに励み、晩年は暖かい家族に囲まれ、慎ましやかに、歳を重ねる。
そんな夢を、見ているもんだ。
そんな女かどうかは、すぐに見分けがつく。
そんな気配を持った女に出会うたび、オレはいつも逃げ腰になった。
オレのアウトローな生き様からすると、お互いを不幸にするだけ。
おむつの旗に、無縁な女。
特別な誰かがいなければ、あっという間に壊れてしまう。
そんな危うさを感じさせる女にだけ、オレは心惹かれた。
あいつは、そういうオレに、ストレートに響く女だった。
だから、あの夜の事は、忘れられない。
カズヤのもとに帰るから、あなたとは、これっきり…。
そんな、聞きたくもない、ありきたりの言葉を吐き捨て、あいつはオレに背中を向けた。
「待てよ」
オレの叫ぶ声に、あいつは振り向いた。
一瞬、時が止まり、あいつと目が合った。
それきり、慌ただしく扉を開けて、オレの部屋を出て行った。
尽きることのない、激越なる悲しみは、こころとからだを壊していく。
どこからか、あいつの声が、聞こえてくる。
誰か、この苦しみを、どうにかしてくれないか。
どうしたら、忘れられる。
どうしたら、楽になれる。
闇のなかで、ひとりつぶやく。
オレの魂の宿る肉体は、雪崩のように落下してゆく。
オレの視界は、みるみるうちに霞んでゆく。
オレを呼ぶ声が、遠くで聞こえる。
やがて、すべては無数の記憶と共に失われ、灰色になる。
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