MOON
あたしの生まれた町は、空がいつも灰色に煤けていた。
町の中心部を流れる川は、工場の汚染水を多量にはらんで、油ぎったヘドロの水泡を浮かべ、顔を背けたくなるような異臭を放っていた。
あちこちにそそり立つ煙突は、夜になると一段と化学物質を大量に吐き出し、あたしたちの暮らす家の屋根に、あまたの塵埃を降り注いだ。
クラスの中には、必ず小児ぜんそくを患う子が何人かいた。
あたしはその子たちの周りで、何の疑問も抱かずに生きていた。
あたしの名は、あつ子。
あたしを産み育てた親たちは、そのスモッグを吐く工場で働いて生計を立てていた。
工場を経営する会社の社宅に住み、この薄汚れた町に暮らして、決して会社のことを悪くは言わなかった。
若かったママは、小さなあたしを抱き抱え、ぼんやりと夜空にかかる月を見上げ、
「ほーら、お月さまをごらん。うさぎさんがお餅をついているでしょ」
と、指をさした。
あたしは、汚れた空にかかる月を見て、思い切りうなずいた。
小学生のとき、美術の時間に、月の絵を描いて、みんなから嘲笑れた。
あたしの絵には、うさぎがいると揶揄われた。
クラスメイトは、 しつこかった。
いつまでも、絵のことであたしをいじめた。
その頃、あたしに話しかけてきた子がいた。
かおりという名のその子は、隣のクラスだった。
「気にするなよ」
かおりは言った。
手も指も短くて、体が小さくて、白雪姫に出てくる妖精みたいだった。
かおりは、たった一人の友だち。
その日は、ふたり、川と海とが混じり合う、河口へ遠出をした。
かおりはなぜか、あまりしゃべらなかった。
海岸へたどり着くと、波打ち際にほど近い浜辺に並んで座った。
「中学生になったら、あっちゃんと遊べなくなるのかな」
かおりは言った。
「どうしてなの?」
あたしは首を傾げた。
「お母さんがね、私立の中学を受けろって」
かおりは勉強の出来る子だった。
「受かったら、この町からは通えないと思うの」
かおりは泣きそうな声になった。
「あっちゃん、ごめんね。ごめんね…」
あたしは泣き崩れるかおりを、背中から抱きしめた。
「だいじょうぶ。なんとかなるよ」
「受験、やめようかな」
かおりは、ポツンとつぶやいた。
あたしは強がりを言った。
「もったいないよ、かおり。私立に行きなよ」
かおりは、コックリとうなずいた。…
かおりは、私立の中学受験で忙しくなった。
いつか、あたしたちは、遊ばなくなった。
中学生になったあたしは、学校に行かなくなった。
理由なんてないし、どうでもいい。
そこに、あたしの居場所がなかっただけ。
大人はみんな嘘つき。
表面だけ愛想よくする。
あたしのことなんて、誰も考えてない。
仕事なんだ。
親という仕事。
教師という仕事。
大人という仕事。
そのうち、親も親戚も近所の人も、あたしをバイ菌みたいに嫌っているのがわかった。
あたしは、家にいたくなくて、街中を彷徨い歩いた。
哀しみと寂しさが、あたしを飢えた野良猫に変えた。
モノが欲しかったんじゃない。
万引きすることで、こっぴどく怒られたかったのかもしれない。
ある化粧品店で、ポケットにルージュを忍ばせた。
すると、いきなり分厚い手が、あたしの右腕をググッと手繰り寄せた。
あたしは、とうとう捕まった。
四方が白い壁の檻の中に入れられて、制服の大人たちから尋問を受けた。
あたしを引き取りに来たママは、嗚咽して泣いていた。
その日から、あたしは本物の札つきになった。
黒い名札を首に掛けられ、世間という楽園から追放された。
誰もが他人の顔をして、あたしに近寄ろうとはしなかった。
あたしの悪い噂は、ひそひそと聞こえ、広まった。
こんな町にはウンザリだった。
いつでも出ていこうと、思っていた。
だけど、あてがなかった。
そんなとき、かおりが家に訪ねて来た。
「久しぶり」と、あたし。
「そうね、久しぶり」と、かおり。
「あっちゃんの事を、友だちから聞いたの」
他人から、自分の名前を聞くのも久しぶりだった。
「あっちゃん、どうしてるか心配になったの」
「そう」
「うん。それだけ」
かおりは、少しだけ下を向いて、微笑んだ。
あたしは、玄関口で、かおりを帰した。
かおりは、もう遠い世界の人。
あたしの心は、よく冷えた冷凍庫の中。
こちこちに凍っていた。
夜のコンビニ。
あたしが少しだけ、寛げる場所。
夏の夜風に頬を撫でられ、店の前に座りこんでいると、爆音と共に滑りこんできたバイクが目の前で急停車した。
ヘルメットを脱ぐと、男の蒸れていた長髪がバサッと首まわりに落ちた。
痩せぎすの、背の高い男だった。
店で缶コーヒーを買い、扉の外のあたしに、いきなり差し出した。
「飲めよ」
無表情のまま、男は言った。
それがテツシとの始まり。
そいつに知り合ってから、時間はかからなかった。
家出を持ちかけられ、ある夜、一緒に町を出た。
テツシの、250 の背中に乗って。
金持ちのボンボンっていうだけの、つまんない男。
遊ばれて捨てられても、自業自得。
それでもかまわない、とあたしは思った。
大人たちは、反抗しない、この薄汚れた町に。
だけど、あたしはガマンできない。
めちゃめちゃにしたい、あたしを取りまくすべてを。
顔の汚れたお月さま、バイバイ。
かおりには、言っておきたい言葉があったけど。
ひとこと、ありがとうって。