こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
本日は、突然ですが、甲斐バンドの特集です。
なぜ、これをやる気になったかと言うと、最近「照和」の記事が、西日本新聞に出て、なにか急に、若い頃の自分の想いが溢れ出てきたわけです。
しかし、ひとくちに甲斐バンドの特集と言っても、とてもこの一記事でその想いのすべてを書きしるす事はできない。
そこで今日は、バンドの大きなエポックメイキングとなった、1979年という時代にスポットを当てて、「私的甲斐バンドストーリー」としてお送りします。
まずは、この曲。 HERO。
HERO(ヒーローになる時、それは今)
1978年12月20日リリースの11th シングル。
100万枚を超える大ヒットとなった。
1979年3月15日、「ザ・ベストテン」最初で最後の出演。
これが、出会いだった。
水割りを片手に、ロングヘアをかき上げながら歌う姿が、 当時のオレにはメチャクチャカッコよく見えた。
これがいわゆる「水割り事件」。
テレビの生出演中に、酒を飲むという事が、視聴者の猛反発を買うという時代だった。
だが、オレには、そんな事はどうでもよかった。
このテレビ出演を見て、初めてオレはステレオのFM 放送を聴いた。
甲斐よしひろが、FM で DJ をやってるって知ったからね。
水曜の夜、始まりの時間もよく知らずにチューニングのボタンを回したら、飛びこんできたのが「 HERO」 をバックにしゃべってる、甲斐の声だった。
「甲斐は、いい気になってるって思うかもしれないけど、、」って言うセリフが最初に耳に入って、へへッて笑う声が聞こえて、あっという間に番組は終わった。
それが、下の番組リストで見れば、3月21日の水曜日、エンディングの曲だったわけだ。
甲斐バンドのオフィシャル機関紙「BEATNIK 」18号(1983年6月7日発行)
それからは、毎週水曜日の夜10時は、NHK FM サウンドストリートを毎回エアチェックして、次の週まで繰り返し聴くことになる。
エアチェックって死語になってるから解説すると、当時はまだ YouTube もネットもスマホもない時代。
だから、特別に欲しい曲だけをレコードで買って、音楽はほとんどラジオが情報源なんだ。
それをカセットテープに録音することをエアチェックと言った。
そして、さっそくレコード屋で買ったのが、リリースされたばかりのベストアルバム「甲斐バンドストーリー」だった。当時、2,500円。
このLP レコードで、オレの求めていたものは、これだ、と決定的になった。
シングル「HERO 」とこのアルバムは、いずれもオリコン1位を獲得した。
この中から、最高のロックナンバー、氷のくちびる。
氷のくちびる
HERO が大ヒットした、1979年。
甲斐よしひろは、このとき、25歳。
オレが10代半ばだったから、10才くらいしか離れてないわけよね。
甲斐も若いから、その頃のしゃべりは、甲斐独特の言葉の言いまわしがたくさんあって、それがカッコよかった。
たとえば「言う」ってことを「吐く」と言ったり、東京で生きていく事を「食いものにされないように」生きていくと言ったりした。
後の方は、そのまま「新宿」って曲の詞の中にあるね。
まだまだ、そんな言葉がたくさんあった。
甲斐は、本当に生真面目に、自分がどうやって生きてきたか、どう生きていくつもりかって事を、「本気の本音で」語ってくれた。
「本気の本音で」というのも、口ぐせのように言ってたな。
25歳という若さが言わせるしゃべりには、ちょうど思春期真っ只中のオレの胸に突き刺さる、いつまでも心に鳴り響く言葉があふれていた。
甲斐はこっ恥ずかしくてイヤかもしれないけど、昔のしゃべりを少し、聴いてもらおう。
1979 年5月30日 ON AIR 。NHK - FM 「サウンドストリート」より。
まぁ、こんな感じで、しゃべってた。
その頃のオレは、はっきりとグレていた。
不良とかツッパリではなく、学校をサボって、あてもなく街をうろついたり、いっそ死んでやろうかと考えたりね。
学校ではいじめに合うし、成績はビリだし、どうしようもなくて自分をもてあましてた。
そんな時に、甲斐の言葉が飛び込んできたんだ。
さっき聴いてもらったような感じでね。
それまで、オレに真剣に生きることの意味や、人生を語りかけてくれる大人は、一人として、いなかった。
あの頃の自分に、甲斐の「サウンドストリート」という番組がなかったら、今の自分はいないと断言できる。
「サウンドストリート」という番組抜きに、オレのライフ・ストーリーはあり得なかった。
甲斐の言葉の力で、オレは再び立ち上がることができた。
このブログを始めたのも、甲斐のように、オレの「サウンドストリート」をブログでやりたい、甲斐よしひろが若かったオレの支えとなっていたように、オレも今の若い子に、自分のメッセージを伝えたい、と思ったからだ。
その頃の甲斐は、当時のオレにとって、生きる道標であり、サイコーにイカしてる人生の兄貴分であり、ヒーローだったんだ。
みんなも、自分の好きなアーティストに、そんな経験をした人は多いんじゃないかな。
「甲斐バンドストーリー」から、もう1曲。これも名曲。
ダニーボーイに耳をふさいで
これを聴いたときは、本当になんでこんないい曲が売れなかったんだろう、と不思議に思った。
そのほかのシングルすべてが、そう思えた。
次に買って聴いたのは、5th アルバム「誘惑」だった。
何より「翼あるもの」が聴きたかったから。
だが、B面もすごく気に入った。
「嵐の季節」から「LADY 」で終わる流れは、非常にクオリティの高いバラードが並んでいて、コンセプトアルバムのようだった。
では、「誘惑」の中から、シネマクラブ。
シネマクラブ
この曲は、この気だるさと、少しばかりルーズなリズムが、一発録りのライヴ感があって、素敵だ。
詞の、破れかぶれな感じも、当時のオレにはすごく共感できた。
メロディラインが、「この夜にさよなら」収録の「最後の夜汽車」に似ていると感じるのは、コアなファンなら気づくだろう。
この曲は、甲斐よしひろの「最後の夜汽車」のセルフリメイクだ。
それから、過去のアルバムを次々に聴いていった。
そこには、信じられないくらい、オレの気持ちをストレートに表現してくれてる曲がうなってた。
「英雄と悪漢」「ガラスの動物園」「この夜にさよなら」「サーカス&サーカス」。
この曲がベスト盤に入っていないのか、という名曲が並んでいた。
青春の傷みと哀しみを、甲斐自身が血を流して書いた歌が、そこにはあった。
次の曲も、そんな名曲のひとつ。
3th アルバム「ガラスの動物園」の中から、東京の一夜。
東京の一夜
1979年11月。甲斐よしひろの著書「荒馬のように」が発売された。
この本は、甲斐がサウンドストリートでしゃべっている事が、そのまま書籍になったと考えればいい。
少し中身を紹介しようか。
「照和」でのウェイター時代のこと。屋台「喜柳」のこと。
amazon 荒馬のように (1979年11月30日 集英社より刊行)


この本が、オレの凄春のバイブルだった。
次の曲。
4th アルバム「この夜にさよなら」収録のシングル。そばかすの天使。
そばかすの天使
1979年5月、オレは初めて甲斐バンドのライブに行った。
自分でチケットを買って、ひとりで行くライブは初めてだった。
なにしろ、まだ 14、15 のガキだもんな。
今のように、中学生が親と一緒にロックコンサートに行くなんて事は無い時代の話だ。
それがいつだったかは、さっき紹介した「荒馬のように」にライブスケジュールとして、記載されている。
1979年5月25日。福岡市民会館。
福岡市の中心部、海岸に近い、須崎公園の隣に位置するホールだ。
なにもかもが、オレには初めて尽くし。
そして、このライブで、生まれて初めての光景を目にする。
ライブの終盤、熱狂が最高潮に達したとき、観客の一部が、ドッと雪崩れをうって、ステージ目がけて突進を始めたのだ。
こんなのアリかと思った瞬間、オレも客席から駆け出していた。
するといきなり、若い男の警備員がオレを強引に引っ張って、通路側からデタラメに、元の客席ではない席へと押し込んでしまった。
その座席には、当然、他の客が座っている。
オレは、その座っている客の真ん前に立ちはだかる格好になってしまっていた。
だが、ステージに全神経が集中し、熱狂に我を忘れているオレは、自分がその席に別の客がいることも、自分が客の邪魔になっていることにも気づかず、放心状態でステージを眺め、そこに突っ立っていた。
気づいたときには、怒ったそこの客から思いっ切り足蹴りをくらい、通路側に蹴り出されていた。
そのとき、やっとオレは、我に返り、自分の席にいたのではないことに気づいた。
警備員が、自分の席に連れ戻してくれたと、勝手に勘違いしていた。
そのときの屈辱は、今も忘れない。
しかし、それよりも甲斐バンドを生で聴いたという感激が、それにまさっていた。
これが、昔のロックコンサートだった。
当時は、熱くなって、甲斐も客席に飛び込んだりしていた。
前著「荒馬のように」の中で、甲斐は書いている。
俺は警備ということに関しては、客席と俺たちの間になにか別な、異質なものが混ざっていなければならないというのは、実はすごく不自然なことだと思う。
それには警備側の規制じゃなく、俺たちと客との間で、俺たちなりのルールってやつを守りながら、フリーでオープンな状態を作っていくことなんだよね。
(中略)
ガードマンに囲まれてやるロックなんて、ニセモノさ。
いたずらに興奮のうずを巻き起こすんじゃなくて、客とステージの間に、自分たちのルールをつくって、本物のロックをやりたいんだ。
甲斐が望んだ、フリーでオープンな状態、客と自分たちのルールを作っていくこと。
80年代にかけて、甲斐は見事にこれをやってのけた。
しかし、甲斐の理想は、聴衆にその真意が伝わっていたのだろうか?
オレには、甲斐が言う、客と自分たちのルールってやつが、その後の時代と共に、新たな因襲となって、警備員の労を要しない「自主規制」になってしまったように思えるのだ。
おとなしい子羊のように、マナーを守る常識ってやつにすり替わり、ロックの精神は置き去りにされてしまった。
そう思うのはオレだけだろうか?
ポップコーンをほおばって
1979年のブレイクから1986年に解散するまで、甲斐バンドは日本のロックバンドとして、時代の頂点を極めた。
ファンはみんな、甲斐の「サウンドストリート」に魅了され、一切テレビ出演をしないバンドのライブに足を運んだ。
ここまでファンを熱狂させた甲斐バンドの魅力とは、いったい何だったのだろう。
少なくとも、オレは、甲斐よしひろという男の生き様に、惚れたところが大きい。
同じ福岡で生まれ育ち、ロックバンドとして輝いた男たちの軌跡を、オレも追い続けた。
何ものかを深く愛するということは、この世界の存在と、今生きている自分を愛し、肯定することにつながる。
一人の男の言葉、人生観、それらを深く知りたいと思う心が、自分自身の大地を耕し、この世界全体への愛情や好奇心へと育ち、多くの芽をふき、葉を広げ、花をつけ、実を結ぶ。
それこそが真の教養というもので、英語でいう Cultivation (教養)とは、自分自身を Cultivate する、すなわち自分自身を深く耕すことなのだ。
その結果生まれるものが、Culture 、すなわち文化となる。
だから教養とは、いい高校やいい大学を出ていたり、学校の成績が良いことなどとは、何の関係もない。
外国語が話せたり、難しげな資格を持っていたり、歴史や文化、法律に詳しかったり、そういう事が教養なのではない。
ただ、好きな事を深く考え、学んだ結果、そうなる人もいる、というだけの話だ。
だから今、学校へ行っていない子供たち、いじめられっ子や落ちこぼれと言われている子供たち、みんな、人生をあきらめる理由なんか、どこにもないんだ。
オレは、甲斐に出会ってから、そういう事を学んだ。
学校から教わるのではなくて、自分自身を深く知り、愛するために、学び直しをしたんだ。
甲斐が、「サウンドストリート」で言ってたように、殴られても殴り返さなくていい、やり返す方法はいくらでもあるんだ、という言葉のとおり、戦った。
その結果、落ちこぼれの登校拒否児のオレは、ビリだった高校の実力テストで、最後には1番になった。
マンガみたいな話だけど、ホントなんだ。
タネを明かせば、自分の好きな科目だけのテストだったからって事なんだけど、それでもビリッケツが百数十人中で1番になったのだから、誇りに思ってるよ。
もちろん、好きな科目を楽しみながら学んだだけで、1番になるのが目的だったわけじゃない。
人生には、人それぞれの落とし前の付け方ってもんがあって、なにも1番を取るだけがすべてではない。
だけど、そういう結果が出てみれば、嬉しかったよ。
オレが自分の人生の、ヒーローになった瞬間だったから。
甲斐よしひろが、フォーク喫茶のウェイターからヒットチャート1位を取ったように、オレも1位を取ったんだってね。
翼あるもの
翼あるもの / 甲斐バンドの歌詞 |『ROCK LYRIC』
この動画は、1980年12月9日の武道館公演のもの。
ジョン・レノンが射殺されて死んだ日の翌日だ。
本日は、1979年の甲斐バンド特集を、お送りしました。
先ほども書いた、学ぶ事っていうのは一生ものだから、消えることはないからね、大事なことだと思います。
次の記事でも、学問と教育について書いています。
さて、まだまだ、コアなファンの皆さんには、初期の「サウンドストリート」のこととか、「HERO 」以前以後のファン層の違いとか、書きたいことは、たくさんありますけど、これをキッカケに、またファンの人同士で盛り上がってくれれば嬉しいなと思います。
それでは今夜はこれで、お休みなさい。