こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
本日は、坂元裕二脚本のドラマ「チェイス」をご紹介します。
坂元裕二・脚本。NHK 土曜ドラマ枠で放送された、2010年作品。
現役の日本の脚本家の中で、今、もっとも輝きを放っている存在。
それが、坂元裕二だ。
近作の「大豆田とわ子と三人の元夫」も、上々の出来だった。
「東京ラブストーリー」から始まったキャリアの中で、特に2010年代以降、時に重厚で陰翳に富み、時に洒脱でコミカルな、演劇性の強い、優れたドラマを手掛けてきた。
「 Mother 」「Woman 」「 anone 」「最高の離婚」「カルテット」などなど、どれをとっても一級品で、ご覧になった方も多いだろう。
そこで、意外に見落とされているのが、このドラマ「チェイス-国税査察官」だ。
その理由は、なぜか?
ひとつは、NHK 土曜ドラマという枠で、短期間に放送されたということ。
この当時、NHK はこの枠で、「ハゲタカ」「外事警察」「鉄の骨」などの業界モノを連発していた。
その既成概念の上に、視聴者は「チェイス」をイメージしたに違いない。
もうひとつは、NHKオンデマンドなど一部の配信サービスでしか観る事ができなかった、という事情があるのかもしれない。
だが、そんな理由で埋もれてしまうような作品ではない事は、観ていただければ、十分に納得頂けると思う。
この作品には、他の土曜ドラマ作品とは別格と言える、脚本の力があった。
その力とは何かと言えば、主役だけではない、すべての登場人物たちの、造形の見事さ。
そして、その人物たちが放つ台詞の卓抜したセンス、凝縮された想いの切実さ、そして、その普遍性にある。
その上に、他作品にも優る構成の見事さだ。
一人の個たる人間と、グローバルな世界経済という舞台装置を、練りに練って、驚嘆すべき壮大なドラマに仕立て上げた。
1話のうちに、これぞという名シーン、書き留めておきたいほどの、人間性の真実を言い当てたセリフが数多くあるのだ。
そして、回を追うごとに、人間の揺れ動く心情の機微を表象する言葉は、深みを増していった。
物語は、最後の最後まで、目を離せない。
先ほど挙げた坂元裕二作品の、どれにも引けを取らない傑作と言っていい。
放送されたのは、2010年。
これが「Mother 」と並行して放送されていたのだから、驚く。
まさに坂元裕二の覚醒を象徴する、記念碑的作品だった。
「マルサの女」の亜流ではなく。
国税査察官を映画の題材として最初に取り上げたのは、言わずと知れた伊丹十三監督の「マルサの女」である。
この作品の、画期的なことは言うまでもない。
従来、映画やドラマの中で、公務に携わる人間は、水戸黄門の悪代官のようなもので、悪しき存在として取り上げられる事が多かった。
この映画はその常識を覆し、その後、それまでマイナーだった公務部署を題材にしたドラマや映画が、雨後のタケノコのように現れた。
奇しくも2010年、テレビ朝日で米倉涼子を主演に制作された「ナサケの女」も、そのような流れを受けて国税査察官を描いたドラマだった。
しかし、このドラマはその亜流ではない。
脱税を取り締まる役目は同じでも、世界経済のグローバル化や金融ビッグバンと言われる規制緩和の流れを受けて、脱税する側と脱税を取り締まる側を取り巻く状況が、大きく変わったのである。
TVドラマの音楽を初めて手掛けた菊池成孔が、自ら歌った主題歌。
退行 菊池成孔
世界を舞台とした脱税スキーム。その驚くべき実態。
「マルサの女」での脱税者は、ホテル経営者や宗教団体といった国内の人間だった。
しかし、もはや、脱税の手口は国境を超えたのだ。
その指南役を演じるのが井浦新だ。
別の名をカリブの手品師。
物語の最初のシーン。
舞台は、カリブ海に浮かぶ、バージンアイランド。
ここは、タックス・ヘイブン。
日本語で「租税回避地」。
所得税や法人税がかからない国のことだ。
経済は国家間の貿易によって発展するから、グローバル化は止めようがない。
しかし、租税の賦課や司法などの公権力の行使は、国境を超えてその権限を行使することができない。
「公法は水際で止まる」のである。
その国際公法を利用して、タックスヘイブンという租税回避スキームが創作された。
政治家、王族、著名人など一部の富裕層や巨大企業、犯罪組織、テロ集団、先進国の諜報機関までが、ここに資産を集める。
そこからどこかの国の口座へ送金してしまえば、いかなる汚れた金も、税務当局や司法の及ばない処へ消えてしまう。
そして巨大企業は、ここにペーパーカンパニーを作り、法人税逃れに利用している。
タックス・ヘイブンは、高い秘密性を保持し、意図的に多額の資金を集めているのだ。
1990年代以降、世界経済の金融ビッグバンによって、デリバティブ(金融派生商品)などの新しい金融商品が出現した。
近頃よく耳にする FX も、そのひとつだ。
デリバティブはいずれも、ハイリスク、ハイリターンの商品ばかりで、素人が手を出すと、たちまち海千山千のハイエナブローカーの餌食になってしまう。
そして、このようなデリバティブ登場の背景にも、タックス・ヘイブンが一役買っている。
金融規制の無い取引地の存在が、ヘッジファンドを始めとする得体の知れない投機マネーを膨張させ、市場を左右するほどの大規模かつハイリスクなマネーゲームを可能にし、その結果として世界的な金融危機が幾度も引き起こされているのだ。
2008年のリーマンショックの根源にも、タックスヘイブンの存在があった。
結局、その割を食うのは、地道に働いている一般市民なのである。
2013年発行された下記書籍の著者は、元国税局国際租税部門のトップとして租税法制整備に尽力し、金融及び租税規制に当たる国際機関の主要メンバーとして、タックスヘイブンやマネーロンダリングの実情を目の当たりにしてきた、世界有数の生き証人である。
租税逃れの驚くべき実態が活写されているので、是非一読をお薦めしたい。
ドラマでは、租税回避又は脱税目的の横文字が次々に現れる。
タックスヘイブン、オフショア・センター、レバレッジド・リース、タックスシェルター、パーマネント・トラベラー、コーポレート・インバージョン…。
このドラマが制作された2010年には、まだまだ認知度の低い言葉ばかりだ。
この時期に、このようなドラマ制作を企図したNHK のスタッフは、さすがだと言わざるを得ない。
この記事で紹介した書籍や外部サイトは、すべてこのドラマ制作後に書かれたものだ。
このドラマに登場するような脱税、租税回避スキームは、現実のものとして存在する。
「タックスヘイブン」は、その後「パナマ文書」の流出によって、大々的に報じられることになる。
その手のニュースは、坂元裕二が調べ上げた事実と、ほぼ変わりがないものだった。
坂元裕二、渾身の取材術、脚本術。
ドラマ制作の前年、坂元裕二はNHK のスタッフと、カリブ海の租税回避地、タックスヘイブンとされている島に、現地取材へ行き、その実態を目の当たりにした。
まさにポツンとある一棟のビルに、何万という巨大企業の本店が、ペーパーカンパニーとして存在していた。
国内では、まず国税局長官に取材した。
これは、NHK というブランドの為せるワザか。
そして、査察官とも毎日飲みに行ったようだ。
そのうちに、少しずつ、内輪の話を仕入れていった。
もちろん、当時ある限りの資料を読み込み、脱税のスキームを考えた。
このドラマの鍵は、なんと言っても脱税スキームの面白さにかかっていると思ったからだ。
人物を描くにあたっては、個と個の対立を重視した。
これは、よくある手法だが、二人の接点の始まりから、その関係性の終末に至るまで、これだけ見事なドラマは観たことがない。
井浦新(当時芸名はARATA )と江口洋介。
これだけ魅力のある役者ふたりがいて、存分に持てる力を注ぐことができただろう。
世界と個の存在は混沌として交じり合い、抗いようの無い宿命に、最後までふたりは翻弄され、結末を迎える。
勧善懲悪、予定調和、その他もろもろの、ありきたりな脚本構成術とは一味も二味も違う、そんなストーリーテラー・坂元裕二が、ここでも躍動している。
ここらが、令和の水戸黄門「半沢直樹」との大きな違いだろう。
(取材方法などの記述は、前掲「脚本家・坂元裕二」を参考とした。)
ストーリーの鍵となる、薔薇の蕾。
ARATA 演じる、天才脱税コンサルタント、村雲修次。
片腕が義手のその男は、木彫りの黒い薔薇の蕾を、もう片方の手の中に握りしめている。
ここに、彼の謎の生い立ちが秘められている。
薔薇の蕾…。
映画好きの方には、すぐにピンとくる。
「市民ケーン」のオーソン・ウェルズが呟く、謎の言葉だ。
村雲にとって、薔薇の蕾は、この男の半生を貫く希望の灯であり、また自身の破滅を導きかねない諸刃の剣であった。
この村雲という男、ARATA という役者のはまり役と言っていい。
何かしらアクの強い、陰のある役柄を演じて、今、最高のアクターだろう。
大河ドラマ「平清盛」で、崇徳上皇を演じるような器は、彼しかいない。
TBS ドラマ「アンナチュラル」でも、同僚から毛嫌いされる偏屈者で、自分の恋人を殺され、わずかな手掛かりをもとに、真犯人を追い続ける、そんな役だった。
それでは「 アン・ナチュラル」の主題歌。
Lemon 米津玄師
「泣いた赤鬼」が好きだった熱血漢。
江口洋介が演じる、もうひとりの主役、国税査察官・春馬草輔。
査察官という仕事に誇りを持ち、日夜、脱税者を狙って駆けずり回る。
仕事バカゆえに、愛する妻や娘と過ごす時間もない。
そこに、従来の脱税スキームをはるかに超えた強敵が現れる。
村雲の描いたスキームに巻き込まれる形で、春馬はドン底に叩き落とされる。
村雲の魔の手は、それだけでは終わらない。
偶然知り合った風を装い、さりげない会話の中に、春馬が叩き上げてきた査察官としてのプライド、正義感、それらに揺さぶりをかけてくる。
「貴方には、この世界を憎む権利がある。」
村雲が春馬に投げかけた言葉だ。
しかし、この言葉は、村雲が背負ってきた十字架でもある。
春馬は、アイデンティティの崩壊寸前にまで追い詰められる。
そして、彼の愛した家族も、尊敬していた上司も、彼を見捨ててゆく…。
村雲が春馬に教えたジャック・フィニィの SF小説「盗まれた街」。
追い詰められる春馬。
だが、彼は投げなかった。
これまで、そうやって生きてきたように、しつこく我慢強く、よく仕込まれた警察犬のように、粘りに粘った。
そして、ようやく見えなかった敵の輪郭が浮かんでくる。
すると彼は、村雲が本当はどういう男だったのかを、まるで自分の事のように考え始めるのだ。
何が村雲をそうさせたのか?
村雲の真の目的は何か?
やがて両者は、最期の対決の時を迎える…。
村雲という生活臭の無い男が放つ、アンチモラルなオーラとは対照的に、春馬は一介の勤め人であり、つましい庶民としての幸福を支えに生きてきた男だ。
その相反するふたりを仲介するのが、グローバル経済の暗部が生んだ、国際的な脱税スキームだった。
両者は、脱税する者とそれを追う者という関係性を超えて、あまりに残酷で無慈悲な、この世界の亀裂を垣間見させてくれる。
その意味で、このドラマは、先行きの見えない現代社会、そこに生きている我々の生き様を、そのままに活写した作品とは言えないだろうか。
江口洋介と坂元裕二は、「東京ラブストーリー」以来のタッグで、プライベートな親交も深いと聞く。
2000年前後から江口の役の幅は広がり、「チェイス」以降、しっかりと社会派ドラマにも、自分の立ち位置を固めていった。
このドラマでは、村雲という異端児に挑戦する春馬という男を真正面から演じ切り、まさに脂が乗り切った、同世代の役者の中でも突出した存在感が、輝きを放っていた。
ドラマ「ひとつ屋根の下」より。
サボテンの花 チューリップ
まだまだあるドラマの魅力。
①全編を流れる菊池成孔の音楽
あの菊池成孔が手掛ける音楽がともかく素晴らしい。
先程の主題歌を含む、オリジナル・サウンドトラックのCD が、 市販のDVD BOX に特典として附属している。
下のアルバムには未収録の曲もあり、これは並のサウンドトラックとは違い、すべての曲がドラマの魅力を最大限に引き出す効果をもたらしている。
②脇を固める豪華共演陣
斎藤工、麻生久美子、田中圭、奥田瑛二、中村嘉葎雄、佐藤二朗、木村多江、etc …。
このメンツを見ただけでも、観たいと思わないだろうか?
特に、今や超売れっ子の斎藤工と、麻生久美子の役どころは見逃せない。
佐藤二朗は、当時まだ無名に近かっただろうが、今やNHK ドラマで主演を務めるまでになった。
他にも、村雲(ARATA )の相棒で、中国系のアジア人、ジョニー・ウォンを演じる大浜直樹がいい味を出している。
BOX の特典映像で、彼のインタビューを見ると、彼は無名の劇団員だった。
彼の公演に足を運んだNHK のスタッフが、オファーを出したらしい。
もちろん、ドラマ初出演だった。
チャイニーズのような舌ったらずの日本語が印象的だが、彼は純粋な日本人だ。
第1話 カリブの手品師。(NHK オンデマンド)
③家族の物語。
このドラマは、社会派エンターテイメントとしても一級品だが、また家族の絆を描いた物語としても秀逸である。
村雲という一匹狼にも家族があり、父母がいる。
春馬という仕事バカの親父と娘の関係は、事件をきっかけに大きく揺らいでゆく。
そして、元経団連会長で、流通のカリスマと言われた父・檜山正道(中村嘉葎雄)と、その子・檜山基一(斎藤工)の関係性も興味深い。
基一は、父の財産、総額六千億円にかかる相続税のために、村雲との接触を持つのだ。
坂元裕二のホンは、大がかりな脱税スキームだけではなく、個としての人間の生活感情にも寄り添うことを忘れない。
第2話 イミテーション・ゴールド(NHK オンデマンド)
「チェイス」と同時期に放送されていた坂元裕二の傑作ドラマ。
特権階級や富裕層を狙った、合法的税金逃れの現在地。
ドラマについては、もはや多言を要しない。
ご覧になったとしたら、よくこんな脱税手口を考え出すものだと感心されるだろう。
しかし、「現実は小説より奇なり」。
先にご紹介した書籍をお読みになれば、つい最近明らかになった「パナマ文書」や「パラダイス文書」に見るタックスヘイブンを利用した脱税の手口は、ほんの氷山の一角で、実態は何も解明されていないことに気づかれるに違いない。
大元からして、脱税とは、平凡な一般市民とは縁遠いもので、オーソドックスな脱税手法ですら一部の金持ちのおどろおどろしい世界であり、「マルサの女」が30年前にこじ開けた、異世界の風景であった。
経済が豊かになれば、世の中の誰もがその恩恵を受けるはずである。
しかし、現代においては、持てる者は ますます豊かになっていき、それ以外の持たざる者との格差は激しくなるばかりだ。
第3話 パーマネント・トラベラー(NHK オンデマンド)
身近に存在する脱税者とその擁護者。
ヘッジ・ファンド。タックスヘイブン。オフショアセンター…。
富めるだ者だけが、それらを利用し、資産を増やす仕組みが出来ている。
その仕組みを利用する者は、すごく身近にもいて、あなたが手にしている機器を作って売りさばいている大企業だったり、応援している野球やサッカーの選手だったり、世界的音楽家やアーティストであったりするかもしれない。
金持ちには、タックスヘイブン発の、そういう脱税への案内状が届くからである。
また、そこには闇社会の首領も、マフィアも、大物政治家も、主要国の諜報機関も絡んでいるから、「タックスヘイブン」「ヘッジ・ファンド」のどこが悪いのか、合法的な節税に何の問題があろうか、みたいな論調の金融機関や経済アナリストがたくさんいたりする。
理由は単純だ。
経済アナリストや金融機関は、その手口に乗っかって、商売をしているからである。
仮に、世界中の税務当局が力を合わせて、租税回避や脱税の取り締まりをやろうとしても、肝心の租税回避スキーム自体が、回り回って先進国の大きな収入源となっているから、どうにも手の付けようがない。
先進国の国家レベルの抵抗の前に、もろくも潰されてしまうことも多々ある。
タックスヘイブンは、まさに魑魅魍魎の跋扈する世界なのである。
だからこそ、それを利用する天才脱税師が現れても不思議はないわけで、現実は映画やドラマの世界をはるかに超越している。
それでも、各国の課税当局はこれからも必死で闘うことだろうし、理想の完遂に全力を傾けて欲しい。
第4話 復讐(NHK オンデマンド)
ツケを回されるのは一般庶民。
それともうひとつ。
重要なのは、我々庶民が、最低限そのような現実に目を開いて、問題意識を持っておくことだろう。
実際に、世界の富裕層は、全体の1%に過ぎず、その1%が世界中の富の半分を所有し、140億ドル、日本円で 一京五千兆円の資産を持ち、その額は増加の一途をたどっているという。
(この数字は、前掲「ルポ タックスヘイブン」によった。)
一握りの富裕者層によるやりたい放題の税金逃れの結果、繰り返し引き起こされる世界金融危機の代償として、そのツケを払わされるのは、誰か?
富裕層に代わって税金を払い公共財を賄わされ、不良債権を抱えた大企業の救済のため、多額の租税負担を押し付けられるのは、日々マジメに働いて、あくせく暮らしている、残り99%の中間所得者層ないし低所得者層なのである。
第5話 史上最大のスキーム(NHK オンデマンド)
さて、ここまで坂元裕二のドラマ「チェイス」の魅力と、その重要なファクターとなった租税回避、脱税スキームについて述べてきた。
私自身、このドラマに触発されて、一から経済や金融の学習を始め、未知の世界に新鮮な驚きを覚えたものである。
私にとっては、ひとつの作品から、新しい地平が開けた、貴重な経験だった。
読者諸氏には、ドラマはもちろん、想像を絶する世界金融のリアルを知っていただきたく、この記事を書いた。
繰り返し述べるが、これは小難しい世界経済のことを知らなくとも、十分に堪能できる、一級品のエンタメドラマである。
並のテレビドラマではないことは、保証する。
観ていない方は、是非、観ていただきたい。
無料期間中に、NHK オンデマンドですぐに視聴出来る。
絶対に面白くないはずがないこと、うけあいだ。
それでは、最後の曲。
おやすみなさい。
ジェラシー 井上陽水 with 菊池成孔
最終回 カリブの黒い薔薇(NHK オンデマンド)