こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
コロナな日常は相変わらずの、この国ですね。
久々、ブログを書きたくなったのは、この曲のせいです。
うっせいわ Ado
この圧倒的な自己肯定感、何でしょう?
メッセージとも違う、自我の防衛本能が見えますね。
一見、尾崎豊っぽい大人社会へのアンチテーゼの顔してますけど、決して表立った行動には出ませんね。
校舎の窓ガラスを割って回ることも、バイクを盗むこともしない。
世間からドロップアウトするわけでもなく、はみ出すことはしない。
優等生なんですよ。
そう教えこまれ、信じこんで、遅すぎる反抗期を迎えたのですね。
自分は天才、凡庸な奴とは違うと断言するが、それは自信の無さの裏返しでもある。
心のヤイバは、内攻するばかり。
コロナ不況が暴れ回る時代に、ホンネは閉ざすしかないですよ。
言っちゃえば、社会人失格、人間失格。
吐き出す場所は、親や友人、恋人でもなく、同僚や上司なんてとんでも無い。
それが、ネットの裏垢になり、模範人間のダークサイドとなって、心の出口を探す。
そして、ネット上の言葉の暴力が弱者への匿名攻撃となって、炎上を生む。
いじめも、同じ構造なんじゃないでしょうか?
表面上は、優等生。
その裏側では、ターゲットを探す狩人。
彼らは必ず群れをなす。
不特定多数による弱者への攻撃は、匿名と同じでしょう。
歌は世につれ。
この曲くらい、今の社会を映し出した鏡はないでしょう。
決して、メッセージソングではない。
いろんな人がこの曲について語ってます。
しかし、繰り返しますが、どうみても、これはメッセージソングではないですよ。
大人や社会の規範に毒を吐く、これは青春期通有の心理で、歌詞の一部に共感できるという若者は、当然ながら大勢いるはず。
しかし、この曲の毒は、毒のための毒、ケチをつけるためのケチ。
他者を否定することにより、自分の存在価値を肯定しようとする、いわば破壊衝動。
そこには、夢も、希望も、ありゃしない。
青春とは、そんな安っぽいアダ花とは異なるもの。
明日への夢があるから、それと真逆の社会の規範に抵抗する。
望むもの、願うものがあるから、叛逆する。
輝けるもの、真実と呼べるものへの希求があるからこその、プロテストなんですよ。
私はこの曲にケチをつけているんじゃないのです。
むしろ、社会を映し出すカルチャーとして、真っ当と言えるでしょう。
経済も社会もコロナで打撃を受け、ストレスフルにならない方がどうかしている。
しかし、問題はそれだけでは無い。
コロナ禍は、ある意味で人災の側面もある。
おっしゃるとおりの、みっともなく、くだらない世の中だ。
私は、このような鏡を生み出した社会を、恥ずべき事だと思っている。
こんなお粗末な社会を作った、大人たちの一人として、責任を感じる。
子供たちが「うっせいわ」と歌うのを聴くと、人の世が、生きることそのものが、うざく、くだらないものだと言われているような気がする。
この歌をニヤけてカラオケで歌うんじゃねえよ、いい年のおまえら❗️
よーく、尾崎豊の「卒業」と比べてみてください。
どこがどう違うか、感じてみてください。
これが、私のメッセージです。