6月19日は、太宰治の命日。
太宰治が玉川上水に投身して、七十年以上の時が流れた。
「人間失格」「斜陽」「走れメロス」などの名作は、今でも若者に読み継がれ、夏目漱石の「こころ」などと並んで、永遠のベストセラーと言ってもよかろう。
戦後まもない時期は無頼派の旗手として一世を風靡し、その後の日本文学史にその名を燦然と輝かしめる太宰治とは、いかなる人物であったか?
これが、本日のテーマである。
桜桃忌とは。
この日は、毎年、太宰治の墓所がある三鷹の禅林寺で、毎年太宰ファンが集まるイベントが行われていた。
今年はコロナ禍で、さしたる行事が行われた様子がないようだが、それでも熱心な太宰ファンは、墓所を訪れ、墓前に献花を手向けたたことだろう。
意外と知られていないが、禅林寺の太宰の墓の隣には、夏目漱石と並ぶ明治の文豪、森鷗外の墓所がある。
森鷗外は、太宰が生涯、畏敬の念を持ち続けた作家である。
このいきさつについては承知していないが、これも何かの縁であろう。
三鷹探訪。
若い頃、太宰に心酔していた私は、太宰の旧居跡、禅林寺、玉川上水などを訪れた。
その日は桜桃忌ではなかったが、やはり献花や供え物にメッセージなどが添えられており、今思い出しても感慨深いものがある。
禅林寺には、太宰治の作品の中から選りすぐった言葉を書きつけた短冊などが売られており、私が津軽に太宰の生家を訪ねたときにも、同様のものがあった。
太宰治という人物像への大きな誤解。
太宰治といえば、「人間失格」、「生まれてすみません」などの、生への否定的に取れる言辞とともに、度重なる自殺未遂を行ったあげく、妻以外の女性と心中したことなどから、頭から否定して、毛嫌いする向きも多かったし、今もそうだろう。
しかし、その生涯と作品をたどれば、決して生まれたときから自己否定、生命軽視の価値観を有していた人物ではないことがわかってくる。
その経緯をここでたどるには、あまりに長くなってしまうため、詳細は述べない。
しかし、簡潔にその理由を数点挙げてみたい。
太宰治とその時代。
太宰治(本名・津島修治)は、1909年6月19日、青森県北津軽郡金木町で生まれた。
奇しくも命日と同じ日。
明治、大正が終わり、昭和という時代が始まった頃、太宰は思春期を迎えた。
その頃の文学思潮は、これからマルクス主義文学が抬頭し、それまでの芸術家によって展開されていた、いわゆる芸術至上主義の価値観が、否定されつつあった時期に当たっていた。
わかりやすく言うと、マルクス主義とは、労働者が権力を握り、土地や建物などのあらゆる資産を労働者の政権が掌握し、国民に再分配する、という経済思想の事である。
文学もその影響から、マルクス主義のために貢献するべき、というプロレタリア文学というものが生まれた時期であった。
芥川龍之介の死。
幼少から多くの兄弟姉妹のいる、裕福な地主の家に生まれ育った太宰は、中学時代から創作を始めた。
特に好きな作家は芥川龍之介で、芥川ばりの短編を自作の同人誌に発表したりしていた。
また、一番上の兄に連れられ上京し、芥川の講演を聴きに行ったこともあった。
ところが、芥川は昭和2年、「ぼんやりとした不安」という漠然とした遺書を残し、自死してしまう。
マルクス主義とプロレタリア文学の擡頭を目の当たりにした芥川は、自分の文学がすでに価値を失ったのではないかとの疑心暗鬼に駆られ、苦悩していたのである。
それは、芥川晩年の作品を読めば、自ずと察しがつく。
芥川自殺の報に、太宰は相当なショックを受けたという。
それ以降、太宰の習作は、作風を一変する。
滅びる階級に生まれた、という自意識。
生家のある金木町で、津島家は町内随一の大地主であり、名家であった。
津島家を取り囲むように、銀行、町役場などの公的機関が蟠踞し、権勢を一手に握っていたのである。
太宰はその後、高校時代にかけて、自分自身が編集、発行した同人誌に、プロレタリア文学の影響を受けた「無間奈落」「学生群」「地主一代」などの作品を、いかにも労働者風のペンネームで発表し、自身の生家の悪行を告発する。
その後上京して師事した井伏鱒二などの感化もあり、プロレタリア風の作品を書くことはなくなった。
しかし、思春期に遭遇した芥川の自殺による感化と、自身が農民を搾取して生きてきた、滅亡する側の人間であるという心性は、生涯にわたり変わることはなかった。
それは、初期作品の「思い出」などを読んでもわかる。
太宰は、マルクス主義という思想を、あくまで人倫の、人の生き方の問題として捉えた。
太宰が発した「生まれてすいません」「人間失格」などの自己否定、四度にわたる自殺未遂と五度目で成し遂げた自死は、そこから生まれたのだと私は思っている。
山﨑富栄との玉川入水の真実。
不倫の末の入水自殺。
これも太宰を人倫から外れた人間とする非難の理由だろう。
しかし、明らかなことは、太宰はその時点で肺結核の末期に近づいていたことだ。
死より以前に吐血を繰り返していることから、それは間違い無い。
当時、肺結核は不治の病であった。
そして、山﨑富栄という女性は、もはや狂信的なまでに太宰を自身の存在理由としており、太宰が死んだらいつでも死ねるように、毒物を携行していた。
生前、太宰はそういう山﨑富栄の行動を、知人に漏らしていた。
つまり、太宰はほどない自身の死を覚悟していたのであり、自分が息絶えたとき、山﨑富栄も服毒して死ぬであろうことを確信していたのである。
玉川入水は、そういう背景のもとに為された。
若年の頃、行きがかりに知り合ったバーの女給、田辺シメ子と鎌倉で心中を図り、田辺シメ子だけを死なせたという罪の意識も、また生涯太宰を苦しめ、死期を急がせる要因であったとも言えようか。
ずいぶん長々と書いてきたが、つまりは、ひとりの作家の作品が、いかなる時代背景のもとに生まれたかを知ることは、実に興味深いことなのである。