こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
今回は、朝ドラ特集。
4月から始まった「半分、青い。」も好調だね。
永野芽郁の天然ぶりも可愛いし、北川悦吏子の脚本も面白い。
漫画家役で豊川悦司が登場する頃からハマってまって、オンデマンドで最初から観なおした。
ついには、「半分、青い。」だけではもの足りなくなって、録りためていた「あまちゃん」を156回、全部観た。
今までガマンしてきたのは、観たら最後、あまちゃん沼にハマって抜け出せなくなりそうな自分を予感していたからだ。
もうここまで来たら、とことん、沼にのたうち回って、朝ドラを語ってみよう。
このPART 1では、朝ドラと「あまちゃん」の時代背景となった日本社会を主として論じてみたい。
そういうわけで、これしかないでしょという、1曲目。
潮騒のメモリー 潮騒のメモリーズ

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朝ドラという文化。
朝のお茶の間で、慌ただしい出勤時刻の迫るさなか、大人たちが欠かさず見るもの。
それが、NHKの「朝の連続テレビ小説」だった。
それは、まだカラーテレビが庶民の家庭に普及し始めたばかりの日本で、小さなブラウン管の中で繰り広げられる、ささやかな大衆娯楽の象徴。
大人たちが見るという事は、登校前に同じ食卓を囲んだ子供たちも、トイレに駆け込んだり、体操服や給食のエプロンの忘れ物がないかを親に注意されながらも、同じ番組を見ることになる。
その頃のテレビ局は、 どんなに民放が少ない田舎でも、NHK だけは全国都道府県に地方局を持ち、放送を見る事が出来た。
つまり、戦後の日本に張り巡らされた唯一のテレビ放送局であったわけだ。
鶴見俊輔の朝ドラ論。
唐突だが、読者諸氏は「鶴見俊輔」という哲学者をご存知だろうか?
この人は、戦後日本を代表する進歩的知識人であり、庶民目線の思想家として知られた偉大なる不良少年であった。
死後まもなく3年を迎えるが、その足跡は、現在を生きる庶民から思想家などの知識人に至るまで、広く深い影響を及ぼしている。
この人が、以下の著作の中で朝ドラを語っている。
これは、1980年、鶴見俊輔がカナダのマッギル大学で行った講義録であり、1984年に岩波書店より上梓された。

戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫)
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ここで論じられているのは、寄席や漫画、テレビ、流行歌などの大衆文化。
戦中派の鶴見先生は、反権力・反全体主義の立場から、総じて日本のテレビ放送に批判的であり、NHK の紅白歌合戦などは、日本人の画一性を助長し、過剰なまでの統一を作り出す仕組みとして、バッサリと切り捨てる。
また大河ドラマでも取り上げた「忠臣蔵」も大嫌い。
「忠臣蔵」とは、江戸幕府によって、主君を切腹させられた47人の赤穂浪士が、元家老の大石内蔵助を中心として、主君を死なせる原因となった吉良上野介邸を襲撃し仇を取る物語。
曰く「昔ながらのみんな一致して団結するという流儀」が、ファシズムや全体主義の温床となるがために、嫌いなのである。
ところが、鶴見先生は朝ドラと一部の大河ドラマには、好意を寄せておられる風が見えるのである。
「忠臣蔵」そのものは江戸中期に当たりますが、最も人気のある連続ドラマの主題は、明治維新の時代と、朝の連続ドラマでは十五戦争の時代、この二つになります。
(中略)
テレビが始まって以来の日本の政府ならびに与党は、この十五年戦争を日本大衆の吟味からなるべく隠しておこうという努力を一貫して続けてきたのですが、それにもかかわらず、彼らは政府が後押しを続けているNHKテレビ放送が日本人全体に送る連続ドラマについて、それらが十五年戦争の事実とほとんどいつもかかわり合って作られていくということを妨げることができませんでした。
(中略)
それらはそれぞれに、戦争が普通の市民のなかで果たす役割を書きました。戦争が市民に災いをもたらし、そして破局に終わったということを見せました。
(*十五年戦争とは、満州事変の起きた1931年から太平洋戦争の終結
する1945年までの戦争状態を指す。)
鶴見俊輔が語るように、朝ドラは、かくも画期的で、日本の平和を維持するために貢献してきたと言えるのだ。
1972年放送。山田太一・脚本「藍より青く」。
2曲目。
「あまちゃん」の天野春子が「君でもスターだよ!」の本番で歌った松田聖子の曲。
これは大瀧詠一の提供曲。
風立ちぬ 松田聖子
とにかく、可愛かった。歌も上手かった。
ズバ抜けていたので、人数揃える必要はなかったね。
テレビ草創期から NHK がスポーツ・歌番組に力を入れてきた訳。
さて、先ほど鶴見俊輔のメディア論について触れたので、朝ドラ、「あまちゃん」論に行く前にもう少し、寄り道をする。
私たち、今を生きる世代は、生まれたときからテレビがあって、テレビ文化に浸って育ってきたので、NHK をはじめとするテレビ局が世論操作のために使われる権力の道具のような言い草には、かなりの抵抗がある。
今の日本人にとって、テレビは娯楽の王様で、それに替わる存在は無いほど、暮らしのなかに浸透している。
そして、事実、現在では、政府による世論操作のメディアとしてではなく、鶴見先生が朝ドラについて述べたような、権力に対峙して、マスメディアとしての本来の役割を果たそうとする、気概のある番組制作者も多く存在する。
それは、放送される番組を観れば、見て取れる事だ。
しかし、戦時中に育った日本人であれば、哲学者ではなくとも、また再び戦争の惨禍を繰り返す兆しのようなものには、相当に敏感に反応するはずである。
鶴見先生の著作に向き合うには、そういう前提が必要なのだ。
そう考えると、確かに NHK はスポーツや歌番組と言った娯楽を通じて、みんながひとつの目的に向かって一致団結しようとする、情緒的日本人の心性を培ってきたという見方もできる。
そのことが一概に、悪いこととは言えないのは当然だ。
以前、このブログにも書いた事だが、スポーツの意義とは、人間が原初から所有する闘争本能や征服欲などの野性を、ルールに則った競技によって、平和裡に昇華させるためにあるのが、本来の姿であろう。
ワールドカップもオリンピックも、そういう意味で捉えるなら、大いに結構な事だ。
しかし、危惧すべきは、過去から現代に至るまで、日本の権力者たちが利用してきた、昔ながらの日本人の忠誠心や団結力、 NO と言えない心性が、権力者の思い描く理想的な人間の行動様式として、無意識下のうちに刷り込まれることだ。
それらがひとたび権力による悪の所業に取り込まれたとき、どういう結末を迎えたか、また迎える事になるのか?
平和な時代には、肉親への愛情や郷土愛、団結心という美徳であったものが、ひとたび悪用されれば、権力者に都合のいい無知な大衆を作り出し、権力の維持に利用されて、戦争へと突き進む、大きな力となりうるのだ。
事実、戦時下の日本の軍人は、ひとりひとりは悪意のない善良な人間であっても、軍隊という上官には逆らうことが罪に問われる集団においては、殺人マシーンと化してきた。
だから、たかがテレビ、たかがスポーツ、たかが流行歌とあなどるべきではない。
鶴見先生が、大衆文化を大真面目に論じるのも、所以なき事ではないと思える。

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次の曲。
「あまちゃん」ではヒロイン・アキの母親役を演じる、80年代アイドルの代名詞的存在、小泉今日子。
「半分、青い。」のヒロイン・楡野鈴愛が恋に落ちたとき、カセットテープで聴いていた。
詞と曲は、アルフィーの高見沢俊彦だ。
木枯らしに抱かれて 小泉今日子

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若いね。初々しいね。
松田聖子、中森明菜と並んで、三大ビッグネームだっただけの事はある。
懐かしいことよ。
現在も続く、日本人の全体主義的傾向。
さて、ここであらためて、現代の日本人に目を向けてみたい。
見出しに掲げた、このような日本人の傾向は、いまだに変わっていないのではないか?
私は、そう思うことがしばしばある。
私は、地元福岡ソフトバンクホークスのみならず、野球というスポーツが大好きだ。
これほど知的で、ドラマチックで、人生を彷彿とさせるダイナミズムをはらんだスポーツはない。
だが、球場でのドンチャンやる、同じ掛け声の応援やパフォーマンスが大嫌いだ。
だから、観戦するときは、必ず応援団のいない内野席で観る。
その点、メジャーリーグの観戦は、さすがに民主主義の本流だと感じる。
太鼓・鳴り物の応援は一切無く、ピッチャーのボールがうなりをあげる音だったり、打球が響かせる快音だったり、フルスウィングのバットが空を切る音だったり…。
そういうものを感じるのも、ベースボールの楽しみだと知っている。
7回裏には敵味方分け隔て無く、「Take Me Out to the Ball Game」( 私を野球に連れて行って)」というベースボールの楽しさを賛美した歌が流れ、歌いたい人びとが合唱する。
観客のファッションも、色とりどりで個性的だ。
それに比べて日本はどうか?
プロといい高校野球といい、みんな一緒のオンパレードではないか。
応援団のユニフォームも応援も、おおかた、一致団結、個性というものがない。
ジェット風船も、あまり私は好きではない。
風船を飛ばして喜ぶのは、子供たちだけで十分だろう。
めいめい勝手で自由な楽しみ方をしていいんだと、大人たちは創意工夫して、子供たちに伝えていいんじゃないかな。
Take Me Out to the Ball Game (私を野球に連れて行って)
太宰治の晩年の作品に「苦悩の年鑑」という作品がある。
これは、太宰治自身の人生と、時代の回顧録といった体の作品である。
以下は、そのなかからの引用である。
プロレタリヤ文学というものがあった。私はそれを読むと、鳥肌立って、眼がしらが熱くなった。無理な、ひどい文章に接すると、私はどういうわけか、鳥肌立って、そうして眼がしらが熱くなるのである。
半年ほど前、北朝鮮が、冬のオリンピックに、急造の朝鮮合同チームの応援団として、韓国へ応援団女子を派遣したね。
どの子を見てもすごい美人だが、すべてが同じ。
衣装、仕草、化粧、応援スタイル…。
金太郎飴のお人形さん。
ニュースで、こんな場面を見ると、私も「鳥肌立って、眼がしらが熱くなる」のである。
薄気味悪くて、やるせないのだ。
人間である以上、彼女たち、ひとりひとりの内面は一緒であるわけがない。
だが、政治や社会に自由を奪われ、彼女たちは決められた振る舞いをするしかない。
その上、韓国の生の実態を見た人間として、彼女たちの身の安全さえ危惧される。
テレビで北朝鮮の軍事パレードを見ても、私は「鳥肌立って、眼がしらが熱くなる」。
基本的に、軍隊というものは、どこへ行っても同じものだ。
個を殺した、上層部に反抗しない人間たちが集まって、軍事行動とは初めて機能する。
だから、戦争屋は、没個性な大衆を好む。
次の曲。
「あまちゃん」の鈴鹿ひろ美こと、薬師丸ひろ子の曲。
これは、井上陽水の提供曲。
素敵な恋の忘れ方 薬師丸ひろ子

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「あまちゃん」の役では、ひどい音痴(?)に設定されていた、薬師丸ひろ子。
だが、その透明感ある歌声には定評があり、歌も上手だった。
デビューから角川映画で、映画女優として主役を張り、主題歌も歌った。
そこらが「あまちゃん」では薬師丸ひろ子のキャリアと役が被っていて、キャスティングのうまさが光った。
「あまちゃん」で描かれた、1980年代の日本の奇跡。
さて、また大きく脱線するが、ここで「あまちゃん」が描いた1980年代の日本社会を振り返ってみよう。
日本の1980年代は、焼け跡から戦後の高度経済成長を経て、1970年代の石油危機をも乗り越えた日本が、アメリカと経済摩擦を起こすほどの経済大国となり、バブル経済へと突き進む、豊かで金満な時代であった。
ここに、1984年に出版された一冊の本がある。
当時、大阪大学文学部教授で、戯曲家でもあった山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」である。

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この本で、山崎正和は日本社会の集団化・均質化社会の変質を語っている。
これは現代社会のトレンドを語った同時代史として、学生や一般の社会人、実業家、知識人に至るまで幅広く読まれた。
描かれた現代社会の素描は、経済においては、均質な物をたくさん作ってたくさん売るという大量生産・大量消費の時代から、商品にイメージという付加価値をつけた多品種少量生産という価値観の多様化による時代の変遷。
主として資源の採取に頼っていた「前産業化社会」、機械による製造業を中心とした「産業化社会」を経て、知識集約型の情報産業、健康・教育・娯楽といった広義のサービス産業が興隆する「脱産業化社会の到来」。
そして、生産力の向上による豊かな社会が生み出した「ゆとり」によって、個人の価値観が多様化し、生活の質を大切にする結果生まれる、著者が理想とする「顔の見える大衆社会」の予兆。
それがもたらす、新しい、「顔の見える個人主義」への待望論であった。
この本は、現代を知る上で欠かせない著書として、実に多様な読まれ方をした。
学生には同時代史を教えるテキストとして。
実業家には、今後の事業展開を図る意味でのマーケティングの入門書として。
学者には、専門の枠を逸脱して社会を論じる、毛色の変わった異質な論文として。
今読み返してみれば、単純労働生産を行う「技術的人間」よりも、アート制作に携わる「藝術的人間」への著者の嗜好を、社会に投影した著作であると気づく。
私は、その頃、怠惰で不真面目な、出来の悪い学生であったが、同時代にこの書物を読み、たいへん共感した事を覚えている。
オレたちひょうきん族 THE DVD (1981-1982)
ビートたけしのたけちゃんマンが活躍する、フジテレビ「俺たちひょうきん族」。
80年代は、私にとっては激動の時代であったが、世の中は好景気に浮かれ、地方にはテーマパークがあちこちに作られ、日本企業はジャパンマネーで高額な世界の美術品を買い漁っていた。
大国との経済摩擦という贅沢な悩みを抱えてはいたが、おおむね順風満帆で、先ほど触れた鶴見俊輔、山崎正和などのインテリでさえ、時代を見るに、楽観的空気が漂っていた。
鶴見俊輔は、先ほど取り上げた「戦後日本の大衆文化史」のなかで、少年チャンピオン連載の「がきデカ」や、「THE MANZAI」でブレイクしたビートたけしの「タケちゃんマン」を評価している。
特にビートたけしについては、「猫なで声の人道主義をきりまくるビートたけしのあからさまな語り口は、戦後三十年続いてきたマスメディアに流れてきた調子と違うもの」と述べた。
筑紫哲也が編集長を務めた「朝日ジャーナル」では、「若者たちの神々」という連載で、若きカリスマたちを取り上げた。
中でも時代の寵児であったのは、ビートたけしや野田秀樹、糸井重里、タモリなど80年代に才能を開花させた面々だった。
夢の遊民社を主宰する野田秀樹は、小劇場の若きカリスマであり、筑紫哲也がゾッコン惚れ込んだ才能だったし、ビートたけしのブラックで弾けた笑いは、マジメで硬直化した社会に向けた、強烈な毒ガスだった。
経済的豊かさは、若者たちの派手な夜遊びに直結し、ジュリアナ東京はそのシンボルだった。
かつてのジュリアナ東京。
80年代の経済大国・日本。
それは儚い泡沫(うたかた)の10年ではなかったろうか?
戦後の高度成長を遂げた60年代から80年代までの間、日本では、大規模な人的災害は、起きていない。
1959年の伊勢湾台風を最後にして…。
それは、地震国・日本には奇跡というほかなかった。
そして、1960年代から現在に至るまでに、多くの原子力発電所が日本中に設置され、稼働を始めた。
ところが、脱産業化社会、高度情報化社会と言われ、経済的繁栄が頂点に達した80年代の終焉とともにバブル経済ははじけ、平成7年、阪神・淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。
以降、日本は、新潟地震、東日本大震災、熊本地震、そしてつい最近の大阪北部地震と、日本の国土は、地震国の本来の姿を取り戻したかのように、繰り返し地震災害に襲われている。
その昔、80年代には、モノが溢れ、人間の生存に必要不可欠な物資、食糧に困る事など想像もしなかった日本。
ライフラインが失われ、水道、ガス、電気が止まり、生活物資が不足し、住む場所が失われる事など思いもせずに、豊かさを当たり前のように享受してきた私たち。
そして、現在、もっとも怖ろしいのは、安全神話が崩壊した、原子力発電所の脅威ではないだろうか?
それは、人間の傲慢ではなかったか?
自然への畏怖を忘れた罰ではなかったか?
奇跡の80年代を過ぎ、平成になった日本に、神の怒りの鉄槌が振り下ろされたかのようではなかったか?
地下鉄サリン事件は、安心、安全な国・日本が幻想であった事を証明した。
次の曲。
80年代にブレイクしたバンドと言えば、チェッカーズ。
「あまちゃん」の天野春子の部屋にもシングルのジャケットが貼られていた。
チェッカーズでNo. 1のセールスを記録した曲。
ジュリアナじゃねえべ。
ジュリアに傷心(ハートブレーク) チェッカーズ

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そして現代。夢から覚めた幻の大国・日本への共同幻想。
80年代、日本は、集団化に基づく全体主義から解放されたかと思われた。
多種多彩な情報のなかで、価値観は多様化し、個人は集団から強制的に押し付けられる一方的価値観の呪縛から解き放たれたと。
山崎正和の夢見た、「顔の見える個人主義」は、確かに時代と共に増大した。
多くの人たちが、家庭と職場だけではない、サークルや趣味の教室や団体に所属し、複数の共同体で、他では得られない個人としての評価を得る事が出来るようになった。
しかし、個人の価値観の多様化に伴い待望された、その理想的な個人主義は、今の日本社会で、お世辞にも成熟しているとは言えない。
同時代に、新進気鋭の社会学者であった桜井哲夫は、その著作「ことばを失った若者たち」のなかで、日本の若者文化の歴史を読み解いた。
80年代に流行したジャン・ボードリヤールの「消費社会」論が、そのコンセプトにある。
桜井は、述べる。
産み出された溢れるモノが、人びとの価値観を支配したに過ぎず、日本社会の均質化や一元化は以前にも増して進んでいると喝破したが、事態は桜井の読みどおりに推移した。

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バブル崩壊以来繰り返される経済不況は、若者の就職氷河期をもたらし、いじめや引きこもりなどの、孤立した個人を社会に多く生み出す事になった。
そして、90年代に登場したインターネットという黒船は、世界を席捲し、SNS という顔の見えない新たな共同体を創出した。
SNS は、差異化された個の嗜好を共有するコミュニケーションツールであったが、同時にマスメディアをも凌ぐ、巨大な情報の発信源ともなった。
それはまた、自己の思いや個人的感情を、全世界に発信する個人の放送局であり、「病み垢」という人間の負の側面を共有しあえる場として、日常生活では見せる事のできない、裏の顔をさらす、バーチャルな解放区ともなった。
そして、目まぐるしい社会の変化の最中、80年代の反動のように現れたのが、現在、日本に存在する、愛国主義者たちの共同体だ。
繁栄の夢から覚めた日本人が、再び同じ価値観の元に集まり、自立した国という共同幻想のもとに暴走を始めたとしたら、世代間のコードに分断された個々の大衆は、それに対抗できるだろうか、という危惧が脳裏をよぎる。
日本を戦争が出来る国にしたい彼らは、明らかに主体的な個人としてではなく、全体主義的愛国心をふりかざし、失われた栄光を取り戻そうと、軍事的・経済的大国を復活させるために、すでに暴走の一歩手前にいる。
彼らは、孤立した大衆よりも、はるかに強い団結力を持ち、着々と目的に向かっている。
しかも、その組織を支援する国会議員団体の幹部は、現政権における一国の首相であり、閣僚なのである。
この仮説に従って、この国のありさまを見れば、なぜ現今の、異常かつ非常識な保守政権が倒れないのか、その謎が解けるのではないだろうか?
最後の曲。
80年代に登場したテクノポップ。
「あまちゃん」でさんざん流れた「君に胸キュン」はやめとくよ。
RYDEEN YMO

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「あまちゃん」に見えた本物の人間愛。
かの愛国主義団体が、平成日本の生んだ負の落とし子であるなら、朝ドラ「あまちゃん」は、その対極にいて、平和の国・日本を守るため、孤軍奮闘したと言えるだろう。
繁栄の時代には、時代遅れのレッテルを貼られた第一次産業である、漁師の家族の物語。それが「あまちゃん」なのだ。
「あまちゃん」は、天変地異のごとき大災害に見舞われた東北のみならず、日本中に、硬直した自称愛国者たちが決して見せる事のない、屈託のない笑顔を振りまき、癒されるはずの無い心の隙間を、なごやかな笑いで埋めてくれたのである。
それが、フィクションのチカラなのだ。
喫茶リアスに集まる地元の人たちは、なんとユニークで、個性溢れる仲間たちであったろう。
この人たちの抱くような人間愛や郷土愛があれば、決して日本は戦争のできる国にはならないだろう。
これこそ、ファッショに対抗できる、芸術のチカラではないだろうか?

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もともと、この記事は、ゆるーく「あまちゃん」讃歌をマニアックにやるはずだったのだが、鶴見俊輔を登場させた事から、このような日本人論へと変わってしまった。
しかし、「あまちゃん」は、たくさんの人に語られ、ファンブックまで存在しているのだから、こんな風変わりな「あまちゃん」論もあってよかろう。
次のPART 2 こそは、「あまちゃん」と宮藤官九郎について、あまねく磨いていきたい。
しかし、まだシナリオも読んでいないし、私の「あまちゃん」ブームは当分続きそうだから、書くのはいつになることやら、わがんねぇなぁ。