コロナ禍の中、日本のプロ野球界は、11月に日本シリーズが開幕。
福岡ソフトバンクホークスが、4年連続の日本一を達成し、幕を閉じた。
今回は、長きにわたりホークスファンである私の、地元球団を巡る物語である。
伝説の西鉄ライオンズ、黄金時代を知る福岡の町。
かつて、福岡には西鉄ライオンズというチームがあった。
稲尾和久という大エースを擁し、中西太、豊田泰光、大下弘などの打棒で日本シリーズ3連覇を成し遂げた、伝説のチームである。
なかでも稲尾和久はすごかった。
大分県別府市の漁師の子として生まれ、幼い頃から漁を手伝い、沖へ出て櫓を漕いだ。
その大海原で鍛えられた強靭な足腰で、年間42勝、3年連続30勝、8年連続20勝など、人間離れした数々の大記録を残した。
なかでも1958年は、3年連続巨人相手に日本一のかかるシリーズ。
西鉄は3連敗から4連勝して日本一となり、稲尾は、7戦中6試合に登板。
3戦目からは5連投し、7試合で5完投。
ファンから「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。
その後、ライオンズは西鉄から太平洋クラブ、クラウンライターと身売りを重ね、下位を低迷するようになる。
そして、1978年。
クラウンライターが西武グループに球団を身売りし、ライオンズは埼玉へ。
地元からプロ野球が消えた。
私の祖父は、晩年、ライオンズが埼玉に移転した後も、ひとり晩酌を口にしながら、ラジオのナイター中継を聴き続けた。
それだけ西鉄ライオンズの残した栄光は、忘れ難いものがあったのだろう。
南海ホークスから福岡ダイエーホークスへ。
福岡にプロ野球が戻って来たのが、1989年。
大阪の南海ホークスは、福岡ダイエーホークスとして生まれ変わった。
だが、変わったのは、名前だけ。
かつて、鶴岡一人、野村克也を監督として築いた栄光の面影は、すっかり鳴りを潜めていた。
九州に移転し、福岡ドーム(現・ペイペイドーム)という巨大な球場を本拠としてからも、パ・リーグの弱小球団の体質はそのまま。
依然として、西鉄ライオンズの黄金時代を知る、西武ファンの方が多かった。
そこで動いたのが、根本睦夫。
福岡を去った、クラウンライターライオンズ最後の監督であり、西武ライオンズの初代監督。
80年代から90年代にかけて、13年間で11度のリーグ優勝、7回の日本一を成し遂げた、西武ライオンズ黄金期の礎を築き、球界の寝技師と言われた男。
1993年、ダイエーのオーナー・中内功の招へいを受け、西武ライオンズのフロントを離れてダイエーホークスの監督に就任した。
その年のオフ、西武との大型トレードで、エースの村田勝喜、主軸の佐々木誠を放出して、秋山幸二を獲得。
同年、小久保裕紀が、ドラフト2位指名で入団。
翌1994年には、フリーエージェント宣言をした工藤公康、石毛宏典を獲得。
同年、ドラフト1位で城島健司を指名し、入団。
さらに根本睦夫は、元巨人軍監督で世界の本塁打王・王貞治を監督に招き、自身は球団のフロントに入る。
すべては、勝つことの喜びを知る、新しい血を入れるための処方だった。
すべては勝利のために。
それでも、栄光ははるか彼方にあった。
自分達が、優勝なんてできるわけが無い。
チーム全体に染みついた負け犬根性は、容易には払拭出来なかった。
1996年には、不甲斐ない戦いにブチ切れたファンが、チームバスに生卵をぶつけるという、いわゆる生卵事件が起きる。
そして、1997年まで、球団は20年連続のBクラスという不名誉な記録を作った。
しかし、勝つための土壌は、確実に培われていった。
秋山幸二の背中を、小久保裕紀が追いかける。
左右のエース、工藤公康と武田一浩が、捕手・城島健司をしごき上げる。
1996年のドラフト会議では、井口忠仁(現・井口資仁)、松中信彦が入団。
勝ちを知るベテランと新しい若い力が噛み合い始める。
常勝チームの主力だった男達によって、若手の意識改革が誘発される。
プロとしての肉体と精神を鍛え上げ、ハードでタフな準備を行う厳しさを、元・西武の秋山や工藤、石毛はチームに範として示した。
チャレンジが道をひらく 野球この素晴らしきもの (100年インタビュー)
1998年、チームは福岡移転後、初めての優勝争いを演じるが、最後の土壇場で連敗を続け、同率3位に終わった。
この年は、球団や選手にスキャンダルが発覚した。
開幕前には、選手5名が脱税事件に関わったとして数週間の出場停止処分を受けた。
そしてオフには、球団職員がアルバイト学生に金を渡して、外野から捕手のサインを盗み、選手に教えるというスパイ疑惑が持たれ、応援していたファンをガッカリさせた。
そんなことをして勝っていたのかという思いに、 私も大いに失望したものだ。
根本睦夫の急逝。初めてチームがひとつになる。
そして迎えた1999年。
4月30日時点で、ホークスは、シーズン序盤から勝ち星を重ね、2位に付けていた。
そんな中の、突然の訃報だった。
球団社長を務めていた根本睦夫が、逝去した。
チームの礎を築いた根本の死を、最も悼んだのは西武時代から関わりの深かった、秋山と工藤だった。
秋山幸二は、熊本・八代高時代は投手だった。
その秋山の野手としての能力を評価して、根本はドラフト外で西武に入団させた。
工藤公康は、父親の強い意向でプロ入りを拒否し、愛工大名電高から社会人・熊谷組入りが内定していた。
根本は、そんな工藤をドラフト6位で強行指名、口説き落として入団させた。
工藤の結婚式の仲人でもある。
二人は、根本の前で、あらためて奮起を誓った。
5月9日、チームは貯金4つで、今季初めての首位に立つ。
スターティングメンバーには、1、2番に村松有人、柴原洋、浜名千広。
俊足、巧打の3人が、日替わりで名を連ねる。
4番には、小久保裕紀が固定される。
その前後に、井口忠仁、城島健司、秋山幸二、松中信彦らの和製大砲がズラリと並んだ。
一番の懸案事項は、投手陣だった。
前年オフに、右のエースだった武田一浩が中日に FA 移籍し、工藤公康がひとりエースとして残された。
その他では、1992年のルーキーイヤーからローテーション投手の若田部健一。
その二人以外に、完投能力のある投手は不在だった。
しかし、次々と新星が現れる。
武田一浩のあと、先発の穴を埋めたのは、1997年にドラフト指名で入団した、永井智浩と星野順治だった。
二人は、それぞれ10勝を挙げる。
そして、彼らと同期入団の篠原貴行が、リリーフ・エースとして 絶体絶命のピンチをピシャリと抑え、リリーフだけで14連勝と神がかりの活躍をした。
また、シーズン途中から加入した外国人投手、ペドラザがクローザーとして9回に定着。
7回まで勝っていれば、必勝パターンに持ち込める、勝利の方程式が出来上がる。
課題は、ほかにもあった。
20年以上優勝したことが無いという経験値の低さと、勝ちにこだわるメンタリティの欠如である。
そこで、ここぞという試合に、王監督は西武黄金期を支えた秋山幸二、工藤公康を起用した。
チームに活力が欲しいと思えば、カンフル剤として秋山幸二を1番バッターに据える。
2位との差が首の皮一枚というときに、工藤公康に試合を託す。
まさに、勝つことが当たり前のプロ野球人生を生きた王貞治という男の、絶妙の采配だった。
チームは、6月の連敗で、一度の首位陥落を余儀なくされる。
だがそれ以降、 0.5 ゲーム差に詰め寄られることがあっても、首位を明け渡すこと無く、マジックが点灯する。
そこに見ることができたのは、初めてチーム一丸となったナインの、躍動する姿だった。
ダイアモンドの鷹(福岡ダイエーホークス応援歌)竜童組
ベースボールマガジン 2020年 11月号 特集:福岡ダイエーホークス王道伝説 (ベースボールマガジン別冊紅葉号)
念願のリーグ制覇。歓喜の瞬間。
忘れもしない、9月25日。対日本ハム戦。
私は、3塁側の内野席に坐って、試合開始前から地元ラジオ局のナイター中継を聴いていた。
マジック2 で、胴上げが見られるかもしれない、という夜だった。
そのとき、ラジオから朗報が流れた。
私は、思わず声を上げてしまった。
「デーゲームで西武が負けた。勝てば優勝だ」
客席のざわめきは、波のように拡がった。
やがて、「マジック1」「勝って優勝」の応援ボードが、バックスクリーン上の液晶パネルに映し出される。
そこにいる誰もが、夢の瞬間が目の前だと感じた。
アンパイヤの手が上がり、試合が始まる。
先発投手は、若田部健一。
序盤、秋山の先頭打者ホームランで先制するも、中盤に若田部が満塁ホームランを浴び、逆転を許す。
しかし、7回裏、小久保のホームランで同点に追いつく。
8回表、すかさず篠原がマウンドへ上がる。
その裏、井口が勝ち越しソロを放つ。
9回表、篠原は回またぎでワンアウトを取る。
そして、ペドラザが登板する。
最後のバッターを空振り三振に取った瞬間、夢は現実のものとなった。
一斉にダイアモンドに駆け寄るナインに、歓喜の輪ができる。
城島も小久保も、泣いている。
王監督が、晴れやかな笑顔で歓喜の輪に抱かれ、宙に舞う。
ドーム球場は、大歓声の嵐に鳴動した。
大盛り上がりの福岡。ホークス旋風が巻き起こった。
思えば、この初優勝ほど、すごい盛り上がりを見せた年はなかった。
中洲を歩けば、ストリートミュージシャンが「いざ行け、若鷹軍団」を歌っている。
駆け寄った中洲の酔客と、大合唱が始まる。
中洲と天神のあいだを流れる那珂川。
その川に福博出合い橋、という短い橋が掛かっている。
橋の中央部には、日除け屋根が付いた丸い東屋の出っ張りがあった。
優勝の夜、同形の丸屋根が、那珂川ダイビングのボードとなった。
女の子までが大歓声のなかを次々とダイブする姿は、テレ朝、久米宏がキャスターだったニュース・ステーションで生中継された。
福博出会い橋。手前が天神。橋の向こう側が中洲。(写真提供:福岡市)
このダイブは翌年の優勝まで続いたが、危険だと福岡市が禁止してからは、元の屋根の姿に戻った。
かつて阪神が優勝したときの、道頓堀川に掛かる戎橋ダイブから派生したものだろうが、生で見ていてホントに楽しかった。
元がお祭り好きの博多っ子である。
街中が喜びに溢れ、出会う人すべてが友人知己のような一体感が肌で感じられた。
この優勝以来、ペナントレースが佳境を迎える時期になると、街中の商店街やデパートが応援歌を流し、タクシー、バスの運転手から宅配便に至るまで、ホークスの法被(はっぴ)を着て応援体制を取るようになった。
それは、現在の「鷹の祭典」にまで受け継がれて、今日に至っている。
中日相手に、あっさりと日本一。常勝チームへの一歩を踏み出す。
そして迎えた日本シリーズ。
相手は、星野仙一監督率いる中日ドラゴンズだった。
第1戦は福岡で、先発・工藤公康の完封勝利で幕を開けた。
1勝1敗で名古屋ドームへ。
中日には前年までホークスにいた武田一浩がいた。
しかし、ホークス打線は中日・武田一浩をあっさり攻略。
福岡に帰って来ないまま、第5戦で日本一を決めた。
MVP は、秋山幸二だった。
こうして、九州でこよなく愛される球団となったはずのホークスだったが、その後、次々と試練に見舞われることになる。
そのお話は、また次の機会にしよう。
福岡ソフトバンクホークス、4年連続日本一、おめでとうございます。㊗️
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