欅坂46、降臨。
2016年「サイレントマジョリティー」で、衝撃的デビュー。
作られた偶像が放ち続ける、ネガティブでスリリングな、神々しいまでの斜光。
あどけない少女の口元から発せられる、アンビバレントで過激な詞とパフォーマンス。
センターを取り続けたカリスマの脱退で、事実上の解散に追い込まれた。
その光芒は、彼女達に仕組まれた必然と偶然の双方から得られた奇跡の放物線を描いて、地上に舞い降りた。
サイレントマジョリティー 欅坂46
ロック不在の音楽シーンの中で「大人への不信と反逆」をテーゼに。
すでに、80年代に見られた、社会的プロテストへの醒めた視線。
体制への反抗や政治への抗議をダサいと侮蔑する、シラケた世代がすでに始まっていた。
「ネクラ」という踏み絵が、個性を踏みにじり、人を選別した。
明るくなければヒトじゃない。
同じでなければ、取り残され、イジメに合う。
バスに乗り遅れることを極度に畏怖する、いわば シラケ・ファシズムが、全世代を覆いつつあった。
そこから20年、30年と時間が流れた。
愚かな、もの言わぬ人の群れは、相変わらずだった。
集団への反逆や、個の自由・解放の叫びは、60年代、70年代のカウンターカルチャーとして、博物館の陳列棚に押し込められ、ポップカルチャーの中で抜きん出た才能を持つ、ひと握りのミュージシャンやアーティストの専売特許となった。
大勢の民衆は、彼らの生み出す愛や平等、自由というフィクションの世界を眺めることだけで、満足することを強いられた。
挙げ句の果て、不自由なまま集団に縛られることが当たり前になって、飼い馴らされた民衆は、不満を抱くどころか、戦前回帰を夢想するカルトに取り込まれ、国家への忠誠こそが価値であるという共同幻想に生きがいを見出しつつある。
その者たちは、個人の自由や権利、差別の撤廃を主張し政治に物申すことをすら、否定する。
権力者に忠実であることを最高の正義とするネトウヨは、それに異を唱える者達を一把ひとからげにサヨクと断定する。
このことは、国民の分断に拍車をかけ、事実上のリベラルな中間層が、このカルト洗脳者と、不毛な中傷合戦をネット上で繰り返すハメに陥っている。
そんな中に登場したのが、欅坂46。
その楽曲やパフォーマンスは、既成の大人社会に飼い馴らされた若者文化に、真っ向から異を唱え、風穴を空けた。
大人達に牙を剥き、同調圧力へはっきりと NO を突きつけ、現状に甘んじて周囲の眼をうかがいながら怯えて生きる者たちすべてを挑発し、威嚇する野獣のような目つきで、個の自由と体制への反逆を高らかに宣言した。
彼女たちの存在は、日本のタテ社会における集団の暴力に抵抗することの意味を、多くの若者に知らしめるものとなったのではなかろうか?
彼女たちが遺した聖痕は、ファッションだけで終わるのか?
それはまだ、わからない。
だが、そのメッセージは、必ずや新しい世代に受け継がれていくものと信じたい。
不協和音 欅坂46
いつか、吠えていた犬は、物言わぬ羊となり、社会に従順になった。
お上には逆らわない大人たちと、変わらなくなった。
今の社会の枠組みをはみ出さなければ、政治家は自分たちをそう悪いようにはしないだろう、という安易な付和雷同が生まれた。
そうなれば、権力を振りかざす者の思うツボだ、ということも分からずに。
そうじゃない。
声を上げなければ、賛同したものとみなされる。
個人の意識を変えなければ、それはただの流行で終わる。
不協和音を僕は恐れたりしない
支配したいなら僕を倒してから行けよ
どの言葉の端々を切り取っても、これがロックなんだ。
てめえらの思い通りにはならねえぞっていう、気概そのものが。
どんどん社会が悪くなって、言いなりにばかりなっていると、もう手遅れになる。
それくらい、権力者はずる賢い。
絶対に、NOと言わなければまずい時は、もう間近に来ている。
そうなった時には、命をかけて、それを食い止める覚悟が必要になる。
だが、誰だって命は惜しい。
みんながみんな、現在の香港の活動家のようにはなれない。
だからこそ、まだブレーキが効く時に、NO と声を上げなければいけない。
香港の民主活動家の周庭さん。
逮捕拘留中、欅坂46の「不協和音」の歌詞が頭の中に流れていたという。
ガラスを割れ 欅坂46
欅坂46。そのすべてを捉えようとした映画が、今、公開されている。
「僕たちの嘘と真実」。
副題にあるように、それはグループの最初で最後のドキュメンタリー映画。
すべての仕掛け人は、秋元康。
それはわかっている。
だが、彼女たちの歌とダンスは、私のような老いた羊でも、ずっと目が離せなかった。
負の感情を圧し殺すことに馴れ過ぎた日本人という人種に、強烈なアッパーカットの殴打をしまくった勇気に敬意を表したい。
わずか5年足らずという活動期間が、彼女たちの栄光に花を添え、永遠のカリスマ性をもたらすことになる。
それもすべて仕組まれたセルフプロデュースにより、彼女たちにも覚えが無いまま、この奇跡は起きた。
それは、極めて現代的なエンターテインメントだった。
平手友梨奈という名のカリスマ。
彼女こそが、最も「欅坂46」というプロジェクトに全身全霊を捧げた。
ただ一人、このグループを牽引する力のある、鬼神であった。
彼女不在の欅坂は解体して当然だった。
(櫻坂46 は、改名ではない。欅坂解体の後の参集だ。)
その平手友梨奈が、まさに欅坂46 というチーム・コンセプト、すなわち強烈に打ち出した社会的メッセージを、自らがグループの中で体現することになった。
彼女は、「欅坂46」の存在意義を、自身のグループへの反逆によって示したと言えるだろう。
秋元康氏が、ここまで計算に入れていたかどうか?
おそらく、想定内であったことは確かだろうと私は思う。
それが秋元康の天才たる所以であろう。
最後の曲。