こんばんは。デラシネ(@deracine9)です。
今回は「脚本家・山田太一の世界。ドラマ「早春スケッチブック」PART2。
これから、どういうドラマか、どんな見どころがあるかをお話ししていきます。
このドラマは、日本のドラマ史に残る傑作です。
十代の頃からほぼ半世紀にわたり、山田太一さんのドラマ、戯曲、小説、エッセイ、その発言などに親しんできた私が、一番感動したドラマです。
そのエッセンスを凝縮して、私なりにその世界観を、できるだけわかりやすく、お話ししたいと思います。
- オープニングに象徴される世界観。
- 山田太一ドラマの「電車」と「駅」。
- 始まりは、サスペンス。
- 謎の女と西洋屋敷の男。
- どこか体験と関わった部分を書く。
- 批判されなくなった小市民の生活。
- なぜ小市民批判は、なされるべきなのか?
- 「一時期」まであった小市民批判とは。
- きっかけとなったニーチェの言葉。
- テレビドラマとして成立させるための苦闘。
- 二人の父。小市民のモラルと超人的価値観との対立。
- 私の「早春スケッチブック」体験。
オープニングに象徴される世界観。
不気味な金属音と共に迫る電車。
線路を急激に走る車体。
みるみるうちに通過する駅のホーム、団地の群れ。
鋭く短く響く、踏切の警笛。
悲鳴を上げるごとく目前を斜めに横切る電車、
ストップモーションで止まる。
すべてが一瞬の出来事という印象。
静止した画面が切り替わり、
浮き彫りになるオープニングタイトルと、
流れ出す、穏やかなテーマ曲。
静かな住宅街、公園の砂場で遊ぶ子供達。
それを見守る母親達。
続いて、登校する学生達。
土手の上で焚き火をする家族。
朝方、送迎バスに乗り込む幼稚園児達と父兄。
放課後の校庭、体育館でテニスや体操をする生徒達。
昼間の買い物客で賑わう商店街。
駅のホームに滑り込む電車。
平和で幸せに満ちた穏やかな庶民の日常に、一瞬、インサートされる裏街に生きるアウトロー達の写真。
夜の街に立ち尽くす、刺青をした裸の男。
胸を露わにし、踊っている風俗の女達。
黒いサングラスにリーゼントで、女を抱き抱え舌を出す男達。
これがドラマの始まりから、わずか5分にも満たない映像。
この数分間が、このドラマのテーマ性を見事に象徴している。
平和で幸福に暮らしている家族に、侵入する不穏な異人達。
平凡な日常が、いかに危うく壊れやすい地盤の上に成立しているか。
それを暗示するかのような、見事なオープニング。
ここに書いたのは、私がドラマの映像を観て、私なりに書き起こしたもの。
だが、山田太一さんの脚本を読むと、このような映像化を予期したト書が、冒頭に記されている。
このオープニングは、山田さんのシナリオどおりに演出された。
ドラマに使われた写真集「フラッシュアップ」。
山田太一ドラマの「電車」と「駅」。
「岸辺のアルバム」や「沿線地図」にも、そして、その他多くの山田太一ドラマにも、登場する電車。
そして、駅のホーム。
それは、勤め人の生活に欠かせない日常性を体現する乗り物であり、それと同時に非日常性への抜け穴でもある。
「岸辺のアルバム」で八千草薫演じる主婦が、不倫をしている男との密会に使う電車。
そして、不倫相手の男(竹脇無我)は、八千草薫を最初に見かけたのが、駅のホームのあなただった、と口説くのだ。
「不思議の国のアリス」で、多忙を極めたふうを装うウサギの穴。
それと同じ役割を「電車」と「駅」は、山田太一ドラマで担っている。
このオープニングは、まさにその仕掛けをするための抜け穴だった。
始まりは、サスペンス。
望月和彦(鶴見辰吾)は、高校3年生。
翌年から始まる大学受験(共通一次試験)のため、勉強漬けの毎日を送っている。
授業が終わり、自転車での帰り道のこと。
妹の良子(二階堂千寿)が、不良少女(荒井玉青)のグループに体を抑えられ、
「お兄ちゃん、助けて」
と叫んでいるところに遭遇する。
良子は、五人のグループに、
「やっちゃおうよ、二人なら、やれるわよ」
とあくまで逆らうが、和彦はあっさりと、
「オレだけで、勘弁しろよ」
と、不良少女達に土下座して謝るのだった。
二人は解放されたが、良子は納得がいかない。
お兄ちゃんなんか大っ嫌い、と和彦に言い放つ。
この二人は、実の兄妹ではない。
良子が二歳、和彦が小学校二年生の時、連れ子同士で再婚した父母を持っている。
良子が、父・省一(河原崎長一郎)の子で、和彦が母・都(岩下志麻)の子だった。
望月家は、そんな家族だった。
兄妹喧嘩で、妹・良子が母・都に、
「どっちが正しいと思うの、お母さんは」
と尋ねるが、パートに出ようとして忙しい都は、曖昧な返事で濁す。
「分かってるわよ。お兄ちゃんが正しいのよ。そっちは本当の親子だもんね」
と、二階の自室へ籠ってしまう。…
こんな感じでドラマは始まる。
平凡な家族紹介ではなく、家族にとっての劇的な事件を仲介にして、家族の関係性が明らかになる。
謎の女と西洋屋敷の男。
寄り合い所帯家族の、事件の翌日。
和彦は、予備校の模擬試験を受けに出かける。
そこには、謎の女(樋口可奈子)が待っていた。
昼休憩の時間、和彦は女に、バイトをしないかと誘われる。
和彦は受験生であることを理由に断る。
が、女はしつこく、いつか帰りの電車で、横に並んで立っていた。
女は、目も眩むほどの美女である。
電車が次の駅に着こうとするとき、
「なにすんのよ、あんた、いらっしゃい」
と、突然大声を上げる。
「いいわけしないでよ。人のお尻触っといてなにいってるのよ」
と、和彦を無理矢理、到着した駅のホームに引きずり降ろす。
抵抗する和彦を、女は脅迫する。
「警察にいうわよ。そしたら、女の方が強いわよ。あんた否定したって、絶対やられたっていえば、大学どころじゃないから」
和彦を非日常の世界に引っ張りこむため、ここでも電車と駅のホームが使われている。
(括弧書き内の台詞は、大和書房刊行・山田太一「早春スケッチブック」より引用。)
ここまでの展開は、まるでヒッチコック映画のようだ。
巻き込まれ型のサスペンスである。
「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラント。
「私は告白する」のモンゴメリー・クリフト。
「見知らぬ乗客」のファーリー・グレンジャー。
和彦は、これらヒッチコック映画の主人公のように、非日常性の世界に巻き込まれることになるのだった。
女はタクシーから自分の乗用車に乗り換え、和彦を見知らぬ西洋屋敷へ連れて行く。
見るからに鬱蒼とした樹木の生い茂る、だだっ広い敷地の中だ。
女の言い分は、バイトをしろということだった。
屋敷に入り、バケツと雑巾を持ってきて、ここらへん、拭いといて、とかなんとか訳の分からない注文を付ける。
それから、しばらく奥へ引っこんだかと思うと、五千円を渡して、上に男がいることを告げ、自分だけ車で帰ってしまう。
やがて、悪魔が降臨するかのような音楽と共に、ひとりの男の足が降りてくる。
ゆっくりと、階段を一段一段軋ませながら…。
ここまでがドラマの冒頭になる。
言うまでもなく、この西洋屋敷の男(山﨑努)は、和彦の実の父である。
この男が家庭紊乱者として、望月家の平凡な日常を破壊してゆく。
ドラマを観たあとに。
ここからは、ドラマの本質や、その世界観を中心に述べてゆく。
ここまで述べたようなストーリーの詳述はしない。
しかし、多少のネタバレを含んでしまう。
初めてこの名作をご覧になる方々の、感動を損ねたくはない。
また、安易にこの記事だけを読んで、ドラマを観た気にならないで欲しい。
だから、ドラマを観ていない方は、まず観て欲しい。
それから、後半部分を読んで欲しい。
現在、このドラマを観ようとすると、方法はひとつだけ。
DVD のレンタルしかない。
DVD・CD・Blu-rayを借りるなら「ゲオ宅配レンタル」
この3社であれば、上のリンクからレンタルできる。
特に、若い人、これから人生に立ち向かっていく人に、観て触れてほしい。
レンタルが無理ならば、シナリオを読んで欲しい。
今や、電子書籍でも読める時代になった。
必ずや、こころの糧(かて)となるはずだ。
どこか体験と関わった部分を書く。
自分のこと、私事を、決してドラマでは書かない。
そんなことをしたら、たちまちネタが尽きてしまう。
山田太一さんは、普段からそう語っていた。
だが、こうも語っている。
私小説的には自分のことは書いていないけれども、でもどこか体験と関わった部分がないと、物語にパワーが出ないと思ってはいます。
「文藝別冊KAWAIDEムック・山田太一」所収。
「山田太一・インタビュー」より。
TBS で放送された「想い出づくり。」。
書かれたのは、山田さんの娘さんが、ちょうど20代のときだった。
25歳を過ぎると、女性はクリスマス・ケーキみたいに売れなくなる。
結婚以外に、道が塞がれてしまうような、世間の風潮。
努力して一流会社に入っても、女性は適当にお茶汲みや書類のコピーなどの雑用係をやらされる。
仕事に生きがいを見出せない彼女達は、寿退社が一番の花道、と思い込まされている。
それに反撥する女性は、ほとんどいない。
そんな現実に逆らおうとする女性達を描いたのが、「想い出づくり。」だった。
「早春スケッチブック」も、そういう側面がある。
子連れの親同士での再婚。
山田太一さんは、中学生の頃、そういう家庭で育った。
母親が戦時下の疎開先で病死して、父親が再婚したのだ。
山田さんの父親は、浅草で大衆食堂をやっていた下町の人。
山田さんは、当時庶民の歓楽街である浅草の一画で生まれた。
義母となった婦人は職業軍人の未亡人で、下町にはない気品があった。
父親のそんな憧れから再婚したものの、一緒に暮らすとなると、うまくはいかなかった。
山田さんは、書いている。
それからは、修羅場であった。
子連れ同士の再婚の難しさが、
今でも骨身に染みている。
「中学生のころ」下に所収。
三年ほどで、再婚は終わった。
義母は、激しい怒りを父に向けて去ったから、私もついでに批判されたような、見捨てられたような気分になった。
無茶苦茶だが、浅草が中央線沿線に軽蔑されたという思いがあった。
「下町と山の手」下に所収。
山田さんには、そんな体験があった。
だから、そんな家族の心情もよく分かっただろう。
もともとが、難しい事情のある家族。
壊れやすく、危うさを孕んだ家庭の日常生活。
そこに揺さぶりをかけるには、もってこいの男。
妻の昔の男であり、息子の実の父親。
それが、山﨑努の演じる、沢田竜彦だった。
批判されなくなった小市民の生活。
前の記事で、フジテレビのプロデューサー・中村敏夫さんのことを書いた。
このドラマは、中村さんが、書きたいものを書いて欲しい、と山田さんにオファーしたことから始まった。
そのとき、山田太一さんの中に、眠っていたテーマが浮かび上がった。
このドラマの初回放送は、1983年1月〜3月。
これからいよいよ、日本がバブル経済の頂点に向かう時期。
この時代は、世間の常識が小市民的な殻に被われて、生きている人間を頑強に縛っていたと思える。
このドラマが作られた当時は、なにさま一億総中流と呼ばれる社会。
小市民的価値観が猛威を奮っていた。
いつまでも永久普遍に、こんな世の中が続くと、大方の人間が勘違いをしていた。
それに、もう一つにはー。
当時は、終戦からそれほど年月も経てはいない。
まだ戦争体験をした人々が、総人口の上でもかなり生きている。
もう戦争はこりごりだ、みたいな意識が大多数の生活者にあって、安心感がある。
世界的にみれば、局地的な戦争や災害は絶えなかったが、遠い国のおとぎ話くらいにしか思っていない。
自民党政権下とはいえ、対峙する野党の存在感は大きく、一応は反戦思想や民主主義を支持するリベラルな政治が実際に行われていた。
自衛隊が海外に派遣されることも厳しく制御されていたし、野党が許さなかった。
それは、いまの現実とは比較にならない。
そういう良い面も、多分にあった。
だが、そういう意味でも庶民の常識的な価値観は、揺さぶられることがなかった。
大きな地震や災害、疫病の流行、極右的な政治勢力の台頭…。
いまあるような現実とは遠い、太平楽な世の中しか、庶民には見えていなかった。
のちに、オウム事件や阪神・淡路大震災、世界同時多発テロのようなことが起こり、目を醒まされることになるー。
だが、このドラマが放送された頃は、ガチな学歴社会。
入る大学によって、入る会社のランクが決まり、そこで人生が決まってしまう。
そのバスに乗り遅れるのは無能であるか、バカなのだ。
企業はあらかた終身雇用。
転職すれば、勤める会社のランクは下がり、何か訳ありではないかと勘ぐられる。
転職してキャリアアップするのは、ごく一部の人に過ぎない。
これは、ちょうどその頃の、山田太一さんの対談集。
この時期の名作群が生まれた背景のような事が、如実に記されている。
私が初めて手にした山田太一さんの著作だったので、本はマーカーや赤線まみれ。
何度読み返しても、新たな発見がある。
上の著作から言葉を拾ってみるとー。
小市民批判というようなものは、昔からずっとあったわけですね、文学にも哲学にも。
一時期マイホーム主義というものが非常に否定された時期があって、そのあと、マイホームのどこが悪いということになり、
(中略)
マイホームを大事にすることに対して恥じたりもしなくなりましたけど、やはり僕は、まだまだマイホーム主義というものは、批評されるべきところがあると思うんです。
山田太一「街で話した言葉」より。
なぜ小市民批判は、なされるべきなのか?
山田さんは続ける。
アウシュビッツのアイヒマンが、家にいるときは家族を愛して、クラッシック音楽を愛した善良なセールスマンであった。
しかし、ナチスの時代に、ユダヤ人を殺せ、と言われたときにそれを拒否したら自分も収容所に入れられる、(中略)というような形で、結局は大量殺人に踏み切って行きますね。
それをどう批評できるかと言ったら、僕はいまの日本の大半の人間には批評できないと思うの。
大半の日本人は、その条件になったら、アイヒマンになっちゃう。
同前掲「街で話した言葉」より。
家庭の幸福は、諸悪の本。
太宰治はそう言った。
つまるところは、
市井の幸福を手放さないで、家族や友人を守るためには、一凡人は、偏狭なエゴイズムに陥らざるを得なくなる。
市井の人びとの、誰しもが憎むであろうユダヤ人の大量虐殺は、このエゴイズム無しには成立し得なかった。
そういう逆説が成り立つのである。
だから、それを逆さにすれば、
世界や人類の未来を憂う人間は、近くにいる家族や隣人を愛さない。
それも成り立つわけで、山田さんは、また別のところで、ドストエフスキーの言葉として、このことを語っている。
矛盾の無い絶対的な善や悪とは、そうそうにあるものではない。
むしろ、あり得ないものかもしれない。
この人間の中にある論理や思想とは、結局そういう矛盾だらけのものなのではないか?
そういう矛盾だらけの生き物が、人間なのではないか?
それゆえに、世間が疑うことなき真実だと思っている、いま現在の価値観は、自分自身の生き方も含めて、批評に晒される必要がある。
いまの一般庶民の暮らしが、そういう批判に晒されてこそ、どれだけの真実がそこにあるのかが試される。
それがこのドラマの、山田さんの企みであった。
「一時期」まであった小市民批判とは。
一時期、マイホーム主義というものが非常に否定された時期があってー
先に引用したように、山田さんはこう語っている。
それは、どんなことだったのか?
70年代の初め頃までは、日本にも大きなイデオロギーや思想があった。
学生運動の荒れ狂うさなかでは、大きな権力や体制に批判的であることが、何より大切なことであったし(その根拠はマルキシズムの思想)、
明治から昭和にかけては、国のために個人が命を投げ出すことが美徳とされたナショナリズム(軍国主義)や、
極右的価値観(三島由紀夫の自決事件)が、身近な出来事として存在していた。
そういう大きなイデオロギーや思想のようなものが、一家庭の幸福のみに価値を置くエゴイズムを、良し悪しは抜きにして、おのずと批判するところがあった。
しかし、時代は移ろい、大きなイデオロギーは時代錯誤、アナクロニズムに陥り、世の中の価値観を揺さぶるような出来事がほぼ起こらない。
それ以降、マイホーム主義は否定されるどころか、それで何が悪いと言わんばかりに、批判されなくなってしまった。
きっかけとなったニーチェの言葉。
シナリオ本のあとがきに、山田太一さんは書いている。
このドラマの糸口となった、ニーチェの言葉。
いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう。
この言葉は、「ツァラトゥストラはこう言った」『序説』の中にある。
山奥に引きこもっていた「ツァラトゥストラ」は山を下りて、民衆に「超人」を説く。
あなたがたが体験できる最大のものは、何であろうか?
それは「大いなる軽蔑」の時である。
あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪をおぼえ、
同様に、あなたがたの理性にも、
あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。
しかし、民衆はなかなか人間を克服した存在である「超人」を理解しようとしない。
ゆえに「ツァラトゥストラ」は、民衆の誇り(無知な山羊飼いどもに優越する「教養」)に訴えかけようと「最低の軽蔑すべき者」を語る。
そこで民衆に語られる言葉が、山田さんのいう糸口である。
いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう。
いうまでもなく、この「最も軽蔑すべき人間」とは、山田さん自身を含めた同時代の一般庶民のモラルであった。
ここに、封印されていたテレビドラマのモチーフが、動き出すことになる。
テレビドラマとして成立させるための苦闘。
打ち合わせどおり、キャストは、続々と決まっていく。
和彦役の鶴見辰吾、妹役の二階堂千寿は、オーディションで決まった。
だが、山田太一さんの中では、ずっと葛藤があった。
観ている方を非難するドラマなんか、成立するはずがない。
もともとが、そう思っていたドラマだ。
そんなドラマの表現の方法は、どうしても前衛的で実験的なものになる。
しかし現実には、ドラマを観てくれないことには、どんな熱量のある意図が込められていたとしても、作品として成立しない。
あらゆるテクニックや仕掛けを施してでも、観てもらいたい。
それに、ドラマの人物が小市民批判を展開するとなると、どうしても批判する側の方が威勢よく、批判される側の方が貧弱に見えてしまう。
非日常性を帯びて勝手気ままに生きている者の言葉となると、勝手に言ってろ、みたいな感じになって、耳を傾けるのもおっくうになる。
そこで批判する側に、死期が近い、という意匠をあつらえてみる。
批判する側が、まもなく死ぬという設定だったら、批判される者も、
仕方がないか、言わせるだけ言わせてやろう、
みたいな寛容が生まれるかもしれない。
そして、批判される庶民の方にも、どしどし生活者としての言い分を対抗して言わせてやればよい。
観る人も、そちらから感情移入でき、すんなり観られるような感触がある。
夢想じみたことばっかりでは、世の中、生きてはいけない。
平凡に毎日を暮らしていくことだって、大変なことだ。
それを言わせることで、偏りのないドラマとして成立し得るのではないか?
お茶の間の日常を、全否定するのではない、ある意味の共感を呼べるのではないか?
そして、ドラマのタイトル。
「早春スケッチブック」という爽やかな感じにしてみる。
内容がちょっと過激で、濃い分、そういうかたちで頂きやすくする。
タイトルを考えたいきさつは、DVD の特典映像で、山田さん自身が語っている。
二人の父。小市民のモラルと超人的価値観との対立。
一見、平凡な家族であるサラリーマンの父親。
河原崎長一郎が演じる、望月省一。
中間管理職の悲哀を背負い、上司への愛想笑いと媚びへつらい、部下への叱咤激励の声色を使い分けながら生きている。
妻子には見栄を張り、会社での失態を打ち明けることはない。
頭の中は、仕事と家族と、その平穏無事を生きがいにしているように見える。
だが、実際は惰性で生きているだけ。
仕方なく父親と仕事上の役目をこなしている。
省一は、まさにそういう「軽蔑すべき人間」として描かれる。
一方で、失明の危機だけではなく、命も危うくなりつつある元カメラマン。
山﨑努演じる、沢田竜彦。
当初から異様な姿で、悪魔的な秩序破壊者として現れる。
まず、息子の和彦の前に。
その発する言葉づかいといえば、まるで晩年の孤独の中のニーチェのようだ。
山田さんは、竜彦を称して「ニーチェ的なものを多く背負った人物」と表現していた。
素直で真面目だった息子の前で、荒々しく昂ぶるデュオニソスの如く、毒を吐く。
「お前ら、骨の髄までありきたりだ」と。
だが、和彦はその秩序紊乱者の言葉に、かつて出会ったことのない価値観の新鮮さに魅了され、いつしか感化されてゆく。
そして、家族には知られないよう、本当の父のもとに通うようになる。
だが竜彦の言葉は、和彦が長年育まれた望月家の小市民的モラルを否定し、その欺瞞性を白日のもとに晒すものだ。
息子・和彦は、いつの間にか、とてつもない怪物に変身している。
そのことを最初に知るのは、母親の都(岩下志麻)である。
都は、手に入れた平凡な家庭生活を守ろうと、竜彦に必死に反撃する。
彼女が竜彦に十八年振りに会ったときの、激越な会話のやり取りは、観るものをドラマの世界に引きずり込まずにはいられない。
しかし、命が燃え尽きようとしている竜彦の姿は、次第に都の心を開かせてゆく。
その衷心からの叫びを、無視できなくなって来る。
輝いていた青春の思い出も、積年の想いも甦ってくる。
やがて、竜彦の影は、和彦、都から妹の良子にまで飛び火する。
望月家の主人たる省一は、自分以外の家族全員が、竜彦に憑かれた怪物になってしまったことに、ようやく気づく。
こうして、二人の父の対決の時が来る……。
このドラマは、異端者である沢田竜彦の持つ豊穣な言葉の力に対し、
日常を生きる庶民の典型としての父親・望月省一の常識的価値観が、
いかなるやり方で対抗し反撥することができるか、という実験的なテーマを持つ。
だが、このドラマの奥深さは、単にそれで割り切れるものではない。
テーマだけを追求するのなら、評論を書けばいい、とはよく言われる言葉だ。
フィクション、または物語でなければ、得られない感動がある。
私の「早春スケッチブック」体験。
このドラマが放送されたとき、私は和彦役の鶴見辰吾と同い年。
高校三年の年が、共通一次・元年に当たっていた。
大人のインチキ臭さを嫌悪し、半ば人間不信に陥っていた私にとって、沢田竜彦(山﨑努)の発する言葉は、今までの価値観をひっくり返すほどの生命力を持っていた。
だが、凡庸な市民、望月省一(河原崎長一郎)の言い分、現実と闘い家族を見守る姿は、単純に切って捨てられないものがあった。
私は自分の父のことを思った。
私の父は、商売人の家に生まれながら、芸術愛好家の祖父を持つ、一家の長男として育った。
東京の音大に入学し、音楽家を志していた。
しかし、道楽者の祖父が家産を傾けたため、当時の音大のレッスン料が払えなくなり、普通の私大に入り直し、東京で商社に職を得た。
ところが実家はついに破産し、一家は離散することになる。
父は、家族の矢のような催促を受け、一家の代表として債権者の対応に当たるため、商社を辞して実家に戻った。
そういう父であるから、生活能力のない祖父のような生き方を極度に毛嫌いした。
だが一面では、極貧の生活でも自分のピアノは決して手放さない、といった芸術家としての矜持も、終生忘れなかった。
父は、平凡な小市民として生きたが、沢田竜彦のように超俗的で、一般人とは異なる風貌と内面を持っていた。
河原崎長一郎と山﨑努。
二人の父は、また私の中にも、対立を超えて生きている。
PART2はここまで。PART3へと続きます。